日記帳

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2006年10月4日(水)

 ふつう、誰かを愛するという行為は、
その相手と自分とのあいだの距離を解消しようとすること
であると考えられがちである。しかし・・・・(略)

つまり、愛するまえ、愛する以前の相手とのあいだには、
距離さえもが存在してはいなかったのだ。・・・(略)

愛さなければ、距離すら見えてくることはない。
逆にいうなら、愛するとは、
それまで隠されていた距離を顕在化させることなのだ。・・・(略)

そして肉体は一つとして、
他と同質の運命を生きることができない。

(山口泉「星屑のオペラ」P140、141)

 単に向かいあって、言葉を費やし、ひたすら時間を過ごしつづけさえすれば、相手を理解できるようになるとは、にわかには信じられない。むしろ人間には、終始いっさいの他者に対して秘匿しつづけ、相手もまた、それが秘匿されつづけていることを承知し、したがってあえてそれには目を向けぬまま---しかも当人の全体を読みとき、そこに自分にとっての価値をあらしめることのできるような秘法が---おそらくは、あるはずなのだから。

 ともに見つめあうことよりは、むしろ同一のものにむかって、ともに眼差しを注ぎつづけること。何らか、互いに働きかける以上に、ただ可能なかぎり身近な場所に---距離とともにいつづけること。(略)、その中間のさまざまな選択の要素を可能なかぎり残しながら、多くの他者の光りによって照らしだされながら、しかもその激しい静寂にみちた場所をめざしつつ・・・(略)

(山口泉、同上P148)

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 かってわたしにも「愛した」友が何人もいた。しかしいま彼らはどこでどうしているやら。彼らの所在はまったくわからない。

 友情がほんものであればあるほど、友は去っていくものだ。

 「愛する」とは別れを決意することかもしれない。「関係とは、より決定的な孤立のための手続きにほかならない」(山口泉)から・・・。

 学生時代わたしが「愛した」友は、彼らはけっして「出世」などしていないだろう。むしろ社会の暗闇にもぐりこんで日々苦しんでいるだろう。そういう人間しかわたしは「愛せなかった」。

 たぶん、彼らとはおそらく二度とこの地上で会うことはないだろう。しかしわたしの内部は彼らの「喜び」、痛み、怒りをいまでも感じ取ることができる。

 おそらく彼らの内部においてもわたしの影が永遠に残っているだろう。

 傷つくことを知らない現代の若者たちは、ほんとうの友情を形成しているだろうか? 傷つくことを恐れ、自己に甘え自分を守ることしか知らないものが「愛する」ことなど知っているだろうか。

 わたしのプロフィールの「小さな火でも 万里の広野を 焼き尽くすことができる」という言葉は、作家の藤原審爾の言葉だが、彼の絶筆は「まだ愛を知らない」という未完の小説だった。

 この地上ではむしろ「愛する」ことなど語れないのではないか。とさえわたしは思ってしまう。ほんとうに愛する者は一度も「会うこと」などできないのではないか。

 「会って」しまった瞬間に、一緒に生活したりした瞬間に、地上の支配構造と社会構造が関係する者の間に影を落とす。 ふたりは「敵対する」。

 ましてやその上、「家族愛」とか「親ごころ」とか「郷土を愛する」とか「国を愛する」とか、「愛」ではなく自己の「利害」しか知らない者たちが口にするのは、まったく・・・・・・。?。

 もちろん地上に生きている限り「利害」から解放されることはないかもしれないが、「利害」のことしか頭にない者たちが、「愛」を語るなんて・・・・。!

 

ちゅうたしげるの

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