自動車産業関連の本の紹介(1989年以前)


『実例 自動車産業のJIT生産方式』 門田安弘著
日本能率協会 1989年10月30日 3689円+税


この本はまえがきにあるように、「自動車の組立メーカーにおけるプレス、ボディ溶接、塗装、組立など工程管理の状況が中心で、 その中で現場管理にいかなる改善策がみられるか、車種投入順序計画や部品中心生産のソフトはどのような構造か、 情報システムはどのようになっているか、情報ネットワーク(LANなど)はどう構築されていて、それとJIT生産方式の関係はどうなっているのか、 FAへの取組みはどうか等々について、明らかにします」のとおりである。
この本が書かれて10年が経ち、この本を書くに当たって行われた自動車会社の調査はそれ以上になる。 この本に書かれたプレス工場の段取り時間は、プレス機械の性能向上等によって大幅に向上している。 また、車体工場に措いて、焼畑ラインと言われた時代は既に過ぎ去った。しかし、この本に書かれている生産計画の立て方、部品手配の方法は基本的には変わっていない。
この本が書かれて現在までの1990年代の10年間は、自動車開発方法・組織の効率の善し悪しが自動車会社の競争の源泉であった。 また、自動車産業の研究も自動車開発問題が中心であった。 もはや自動車工場での改善は行き着くところまで行き、少なくとも他社との競争優位を生まなくなったと考えることができる。
では、この本の価値がなくなったかと言えば、それは間違いである。自動車工場でのソフトな技術を集大成した功績は否定しがたい。自動車工場の改善が競争優位を生まないからといって、非効率な工場は命取りである。 その意味でこの本の価値は生き続けている。
著者がトヨタ生産方式を最初に学んだのが、ダイハツ工業の京都工場であり、ダイハツとトヨタの実例を中心に"カンバン方式"と、日産、マツダのMRPを中心とした生産管理を中心として書かれている。 後ろに、自動車産業以外のJIT生産方式について補足している。 自動車工場のソフトな部分のよくわかる本である。


『自動車はじめて物語』 折口透著
立風書房 1989年9月15日 1456円+税


 どんなモノにも始まりはある。自動車は19世紀終わりに登場し、まだ100年と少ししかたっていない。 どのように現在の車のようになってきたのかを、ショート・ストーリーに分けて書かれた本である。

 自動車に関する主要な発明は、そのほとんどが100年の歴史の前半に集中している。 ただし、これらの発明の多くは、アイディアの形で生まれても、それをサポートするための工業技術がないために、実用化が阻まれたものがほとんどであった。 DOHCシステムは例外的存在で、1912年に発明され、細かい工夫と改良を加えながら、今日まで基本的に変わることなく、使用され続けている。 ただ、一般的に普及するのはごく最近のことである。

 一般的には、燃料噴射システムのように、1903年に史上最初に飛行したライト兄弟のフライヤー1のエンジンには、幼稚な形ながら燃料噴射システムが使われていたと伝えられている。 そして市販車に採用されるのが、1957年のシボレー・コルベットのオプションエンジンである。 発明としては古く、しかも現在最新の技術を代表するのが、燃料噴射システムである。

 なんとなく自動車がいっそう身近なものになつた感じを与えてくるれる本である。


『自動車部品業界が危ない』 野上務著
エール出版社 1989年8月25日 971円+税


自動車部品業界について書かれた本は少ない。 下請のままでは潰される、部品メーカー各社・必死の系列脱出計画。技術力のない中・小メーカーはどんどん潰される。 海外企業と上手に手を組んで生き残れ。と言ったように今でも通じる部品業界の実態を書いてある。


『ホンダ・ウェイ』(文化融合型の経営革新) R. L. シュック著 崎谷哲夫訳
ダイヤモンド社 1989年7月20日 1845円+税


『ホンダ・ウェイ』という本の名前は、1984年にホンダのアメリカ工場であるHAM(ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング)の社長となった入交昭一郎氏ら3人がホンダの事を書いた本に由来する。 このオハイオ工場に日本(にあるホンダ)の良さを取入れて、新しいホンダの企業文化を作ることを目的とした。 ホンダの歴史とホンダ独特の経営手法について、3人がそれぞれホンダで経験したことを経営・開発・生産・営業などの項目に分け、具体的な実例を挙げ、米国人にわかるように解説して一冊のテキストに纏めたものである。 この著書は、入交氏らが書いたテキストを参考にして書かれたものと推測される。 ホンダ技研工業のアメリカでの乗用車の現地生産を主題に書かれている。 そこではホンダ技研工業の草創期の本田宗一郎氏と藤沢武夫氏のことから書き始めている。 アメリカでの二輪車の販売から乗用車の販売、それに続く二輪車の現地生産、乗用車生産の歴史について書いてある。 その乗用車工場でのアメリカ人と日本の生産システムの融合を主なテ−マとしている。


『 何が、日産自動車を変えたのか。(大組識活性化を生んだ意識革命とは)』 柴田 昌治著
PHP研究所 1988年12月26日 1194円+税


 この本は、1985年6月から7年間日産自動車の社長を務められ久米豊社長のもとで行なわれた改革について書かれている。 著者の柴田昌治氏は、この本を書いた時点では『日産自動車のような大組織でも、組織風土を変えられる』と手放しで喜んでいる。 現実は、この改革は失敗に終り、1999年のルノーとの提携、実質的にはルノーによる日産自動車の改革ということになってしまった。
 なぜ、この時の改革が失敗したのであろうか。 歴史の定石から言えば、組織が困難に直面した時、改革をしようとする人達が現われ、改革を進めても、組織の主流派からは黙認される。 そして、改革が一定の成果を上げてくると、改革派の勢力拡大を恐れた主流派によって、改革派は潰される。 事実、日産自動車は1988年から1990年の業績は良かった。 しかし、この本の読み方は、日産自動車の改革はどのような形で行われ、改革が失敗することとなった原因を推定することであろう。 この改革の結果として、『Be−1』、『シーマ』、『シルビア』、『セフィーロ』等の成果も出ている。 この失敗した改革の評価として、『ええかっこしい』という言葉が残っているだけである。
 トップの方向性、ミドルのリスク・テイク、若い人の力、これらがダイナミックにぶつかり合う中で、 大きなエネルギーとなって風土を改革し、開発の仕組みを作り変え、新しいコンセプトによる商品作りをしていく。
 久米豊社長は、社長就任時に企業理念として『お客様の満足を第一義とする』と決めた。 広範な人事異動を行い、 部長や課長を肩書きでなく「 さん」と呼ぶことによって自由な社風を作り出そうという『さん付け運動』を提唱した。
 製品戦略の再構築をターゲットとしたPMS(プロダクト・マーケティング・ストラテジィ)というプロジェクトがある。 取締役と総務部長のもとに13人の開発の課長と外部コンサルタントを交えて1985年8月から10月まで作業し、12月に提言を発表した。 重要なのはPMS提言が単なる組織変更に終わらなかったことである。 その後に日産自動車の体質を変える「動き」が本格化してくるのだ。「流れ」を変える力強い動きがあちこちから顕在化してくる。
 まず、この提言どおりに業務が行われるが非公式のモニターチームを発足させた。 このチームは提言を組織風土の改革に確実に結び付けるべくその内容を組織の末端まで説明して回ると同時に、 メンバーに選ばれた各課長がそれぞれの職場の意見を吸い上げ、実態をチェックした。 このため、ゲシュタボとかCIAと呼ばれた。半分は成功であったが、残り半分は失敗であった
 この社内風土改革と対応して出てきたのが、エンジン設計部門の中堅リーダー層により発起された『元気の出る鶴見商事』である。 2年前に廊下の壁に、ペンキでデカデカと巨大なミッキーマウスの絵を描いてしまったのである。 久米豊社長の考えが、『元気の出る鶴見商事』のメンバーの支えとなり、『私もジャーナリスト』、『アドベンチャーUSA』等の企画をおこなった。 また、1986年と87年には、日産自動車の研究・開発部門の拠点である日産テクニカルセンターで開発祭をおこなった。 開発祭では、従来秘密にしていた実験棟をも公開した。非公式雑誌『Beザイセルフ』をも発行した。
 しかし、意識改革のみでは組織改革を行うことができない。意識改革の勢いを仕事の仕組みを変えていかなければならない。 つまり、壁画騒動にしても開発祭りにしても、クルマを買うお客さんの利益にストレートに繋がっていなかった。 日産自動車の改革は意識改革という面では成功を収めたが、この意識改革を業務改革に結び付ける面では成功したとは言い難い。
この本の中から読み取れる組織の問題点は、下記のとおりである。


 著者の柴田昌治氏は最近下記の2冊の著書を表している。
 柴田昌治氏は上記の日産自動車の改革についてどのように考えているのだろうか。 上記の2冊の本では、『会社が社員を変えるのではなく、社員が会社を変えるのだ』、『二割が動けば会社は変わる』、 『まじめに雑談する』、『リコミュニケーションを起こす』などを主張している。  やはり、組織改革を一時的に終わらせず、企業改革につながせるためには、学習組織(ラーニング・オーガニゼーション)等の知識創造企業に変わる必要があるのであろう。



トヨタの現場管理 門田安弘著
日本能率協会マネジメントセンター 1986年10月20日 1262円+税


1978年8月25日に出版された本書を全面的に改定増補し、その内容をアップ・ツー・デートにしたものである。
トヨタ自動車は多くの利益を上げることで有名になっている。これは売価低減によって利益を獲得している。これは徹底的な7つのムダの排除から生じている。7つのムダとは次のとおりである。
  1. つくりすぎのムダ
  2. 手待ちのムダ
  3. 運搬のムダ
  4. 加工そのもののムダ
  5. 在庫のムダ
  6. 動作のムダ
  7. 不良をつくるムダ
このムダにもわかりやすいムダと、わかりにくいムダがある。ここで大切なことは、ムダの排除のためには、ムダの発見が第一であることを十分認識することである。ムダが目に見える管理をすることが重要である。

トヨタ生産方式の目的として次のとおりである。
  1. 究極目的はコスト低減によって利益を生むこと
  2. 在庫を減らすことによって諸問題が顕在化する
  3. 数量管理・品質保証・人間性の尊重
トヨタ生産方式の体系として次の2つがある。
  1. ジャスト・イン・タイム
  2. 自働化
この本ではジャスト・イン・タイム方式の体系として、平準化、カンバン方式、生産計画等の説明に多くのページを割いている。 また、自働化では標準作業と改善手法を紹介している。 トヨタ生産方式の核となっている『工程バラシ』の入門的に書いている。
なお、この書に書かれた自動車会社の生産計画立案と部品手配については、 生産管理講座の
生産計画の立て方, 資材手配 で詳しく引用している。


『労働貴族』 高杉 良著  1986年6月15日
講談社文庫  419円+税


 第1章  暑い夏の終り 
 第2章  疑惑の権力者 
 第3章  静かなる対決 
 第4章  日産労組の歴史 
 第5章  石原俊の軌跡 
 第6章  怪文書事件の波紋 
 第7章  経営風土の転換 
 第8章  決着への道 

 この本は、ドキュメンタリー小説という分野の本である。 ドキュメンタリー小説は、主に企業内部のスキャンダルをテーマにすることが多い。 しかし、この本は実名を使用し、今を版を重ねているということからドキュメンタリーとしての価値が高いと考える。

 この本の題名は、日産自動車で“塩路天皇”と呼ばれた塩路 一郎日産労働組合委員長のことである。 1980年代に、日産自動車か英国に現地生産をするに当たって、塩路労働組合委員長は“英国進出には断固反対で、これが聞き入れられなかったらラインを止める”記者会見した。 事実、安全問題を理由にラインを断続的に止め、経営問題に不当に介入していった。 日産の石原俊社長が、塩路労働組合委員長の不当な経営への介入を排除し、労働組合を健全化させていったドキュメントを小説風に描いた本である。

 日産自動車は設立は、大正3年の快進社に溯ることができる。 昭和6年に、日本産業という新興財閥を率いていた鮎川 義介氏の戸畑鋳物に買収される。 昭和8年に、鮎川義介氏は日本産業と戸畑鋳造の共同出資によって自動車製造株式会社を設立してその社長におさまり、さらに翌年に日産自動車と社名変更して今日にいたっている。 当時は、企業家精神にあふれる企業であった。
 「日産自動車」の設立は、鮎川社長の献身的で気宇壮大な構想に基づくものであり、
「アメリカ車に対抗し得る日本製の乗用車を製造することのできる自動車工業を、日本にも確立しなければ、早晩、欧米列強に伍していけなくなるであろう」
 という彼一流の愛国心の発露でもあった。当時、鮎川義介氏は次のように情熱を吐露していた。
「国産自動車を製造する企業を打ち立てることは、国家的・国際的に有意義な事業であり、しかも他社の企て及ぼし得ざるものである。 したがって、我が『日本産業』の機構を通じて経営する以外に道はなく、様々な困難が予想されるが、敢えてこの新事業に挑戦しないわけにはいかなかったのだ」
 すなわち、第一に、「自動車工業」こそ日本の将来にとって国家的・国際的に有意義な事業であり、第二に、国家を含めて他の誰もやろうとしない事業だから、 自分が采配を振っている「日本産業」コンツェルンが率先して手をつけなければならないのだ、という燃えるような使命感に駆られて、「日産自動車」を創設したのである。(50ページ『日産ゴーン「成算ありやなしや」ポスト日本式経営の実験』)
 その日産自動車が変わったきっかけは、第二次世界大戦後の労働争議にあった。 昭和22年7月に、興業銀行から経理担当常務として川又克二氏が、当時の日産重工業に入社した。 激しくなる労働争議に対して、第二労働組合によって労働争議を終了させた。 この第二労働組合で活躍したのが、塩路一郎氏であった。 戦後すぐにできた労働組合は、企業経営を考えず、要求を出し労働争議を繰り返していた。 しかし、多くの組合員は会社が潰れれば困るという考えで、第二組合に加盟し、会社に協力していった。

 結果、昭和32年11月に川又克二氏は日産自動車の社長に就任し、一方塩路一郎氏は昭和37年に日産労働組合委員長に就いた。 川又克二氏は昭和48年に岩越忠恕氏にバトンタッチするまで16年間、日産のトップとして君臨した。 岩越社長の4年間も、川又氏は会長として院政を引いたと言われている。 川又克二氏はそれまでの日産のやりかたを一から十まですべて変えたと言われている。

 塩路一郎氏が経営に不当介入するまでに権力を握ったのは、塩路氏にとりいって、権力を握ろうとした経営側にも責任はある。 特に、人事・労務部門は潮路派の巣くつと言われていた。 労働組合の支持基盤である現場の作業長等の人事は、事実上労働組合が決めていたという。

 塩路会長の悪口をいうことは、絶対にタブーで、社員同士で酒を飲んでいるときでも、危なくて離せなかった。 塩路批判でもしようものなら、お庭番みたいなスパイがいて、確実に塩路会長の耳に入る仕組みになってるみたいだった。 現実に、左遷されたり、飛ばされた者の事例を知っているからなあ(49〜50ページ)
 川又−潮路の蜜月は20年間続いた。このあと社長に就任したのが、石原俊氏である。 労使協調路線の名を借りた労働組合の経営介入がある限り、日産自動車には21世紀の繁栄はないと考えた。 そのために、石原氏は労働組合の健全化を粘り強く行なった。 その時の会長は川又克二氏であったことが、問題を難しくしていた。 塩路一郎氏は昭和59年1月20日発売のフォーカスで女性問題が取り上げられ、その後川又氏が亡くなって、労働貴族の座からさった。 そこで石原社長を助けたのは、会社が潰れては困る組合員達の協力であった。

 塩路氏は『労組の指導者が銀座で飲み、ヨットで遊んで何が悪いか』と公言をはばからなかったという。 塩路氏が不正を働いたかどうかはわからない。 一般的に行われる不正は、正式な取引に関して、帳簿に載らないバックマージンや、海外旅行等の便益を要求することが一般的である。 例えば、労働組合では組合員に斡旋販売する財・サービスについて行われることが考えられる。

 
『日産自動車の失敗と再生』 上杉治郎著 2001年10月1日

では、塩路氏に高い評価を付けている。私はこの考えは誤っていると考える。 確かに、塩路氏はサニーの量産に始まって、アメリカの現地生産に対して適切な考えを持っていたのは事実である。 しかし、それだけの話なのである。個人的なネットワークを駆使して、的確な情報を集めたことは確かであろう。 それは的確な意見を言っただけである。言い方を代えれば、正確の時刻を告げただけである。 経営にとって最も重要な、時計を作ると譬えられる業務プロセスや経営システムの高度化に対して何も貢献していない。 というよりも、塩路氏個人の優秀さを際立たせるために、労働組合の委員長でありながら、自分の存在を脅かす優秀な人材を排除していった。

 この結果、優秀な人はたくさんいるのだけれども、その優秀さを活かせない不合理な組織が残ってしまった。 日産自動車は、塩路氏の関心の薄かった技術部門が突出する組織になったと推測できる。 誰もが企業の進むべき正しい方向は分っているのだけれども、セクショナリズムによって皆が正しい思うことが実行できない企業になってしまった。 日産内に澱のようにまといついている自己保身からなる縄張り主義を、しがらみがないカルロス・ゴーン氏によってやっと改革できたと思う。

 戦後、労働組合は左へと大きく外れOBとなった。 これを経営と労組の協調路線ということで修正したが、今度は右に(この言葉は適切ではないと思うが)大きくOBしてしまった。 ちなみに、労働組合が組織されていない企業をグリーンフィールドと呼んでいる。 労働組合の組織化率が年々低下していることを嘆くような報道がなされるが、嘆く必要ななさそうである。 労働組合が弱体化しているのは、“労働貴族”の問題を労働組合自身が解決できないからである。


『決断』(私の履歴書) 豊田英二著
日経ビジネス人文庫 2000年11月5日 695円+税


 工場を学校にして 
 時代を翔ける
 挑戦そして決断

 この本は、1985年に日本経済新聞社から刊行された本を文庫にしたものである。
 著者の豊田英二氏は、元トヨタ自動車社長で、現在トヨタ自動車最高顧問である。 本田宗一郎氏に次いで、日本人として2人目の米国の自動車殿堂入りをした。

 豊田自動織機製作所を設立した豊田佐吉氏には、平吉氏と佐助氏という弟がいた。 この平吉氏の子息が、この本の著者の豊田英二氏である。
 佐吉氏の子息の喜一郎氏は、トヨタ自動車を設立した。 英二氏と喜一郎氏はいとこにあたるが、英二氏の方が18歳年下であった。 豊田自動織機の自動車部の時代から、英二氏は喜一郎氏といっしょにトヨタ自動車を支えてきた。 特に、第二次世界大戦後に乗用車生産の認可が下りて、喜一郎氏が急死した後は英二氏を中心にトヨタ自動車は発展していった。 この本は、英二氏の幼年期から社長就任までのエピソードが、体験を主にして書かれている。

 豊田英二氏は、1967年10月から1982年のトヨタ自工とトヨタ自販の合併までトヨタ自工の社長を務めた。 戦後急成長を遂げたトヨタの舵を取り、アメリカでGMとの合弁生産を決め、豊田章一郎氏に社長を引継いだ。  少し前までは、トヨタ自動車は無借金経営で、2兆円の余裕資金を持っていると言われていた。 現在では、余裕資金は3兆円あるとも言われている。 トヨタ自動車は設立時から多額の余裕資金を持っていたのではなく、昭和40年代の頃のモータリゼーション期に形成されたものであるという。



『トヨタ生産方式』(脱規模の経営をめざして) 大野耐一著
ダイヤモンド社 1978年5月25日 1359円+税


 第1章  ニーズからの出発
 第2章  トヨタ生産方式の展開
 第3章  トヨタ生産方式の系譜
 第4章  フォード・システムの真意
 第5章  低成長時代を生き抜く

 もう20年以上も前に初版が出版されて、今でも重版を重ねている人気の本である。 トヨタ生産方式について、この20年間に多くの本が出されたが、やはりこの本が定番である。 本の題名にあるとおりトヨタ生産方式は、今は故人となってしまった著者が、トヨタ自動車に在職中の30年間をかけて作り出し、定着させていった生産システムである。 この本は俗称大野語録とも呼ばれている。 この著作以後多くのトヨタ生産方式に関する本が出版されている。これらの本の原点ともいうべき本である。 しかし、トヨタ生産方式から派生した“1個流し”“工程ばらし”といった技法については別の本に頼らざるえない。

 トヨタ生産方式を単なる技法と誤解している人も多い。トヨタ生産方式の本質は、ものの見方・考え方である。 “徹底したムダの排除”と“知恵を使ったものづくり”である。 後者の“知恵を使ったものづくり”は、“匠”にも共通する考えで、日本のものづくりの強さの核の部分である。 低コストで高品質のものを生産するのは、単なる熟練である。 “知恵を使ったものづくり”は、より低コストで高品質なものを作るために、知恵を使い、道具ややり方に工夫を付け加えることである。 更に、その努力を不断に続けることである。

 トヨタ生産方式の内容については、生産管理講座の
トヨタ生産方式 を参照してください。

(株)デンソー(旧日本電装)にいて、京三電機(株)社長になられた古畑友三氏の5ゲン主義シリーズと並んで、生産管理の定番となっている本である。

   5ゲン主義 現場管理者の心得
   5ゲン主義 品質管理の実践
   5ゲン主義 ムダ取りの実践
   5ゲン主義 人を育てる
   5ゲン主義 5S管理の実践

以上が日科技連より1800円+税で販売されている。 なお、古畑氏は現在名古屋で(有)生産経営研究所を営まれている。


自動車関連の本の紹介(目次), 1989年以前, 1990年から93年, 1994から95年, 1995から97年, 1998年, 1999年, U, 2000年, 2001年T, U, V, 2002年T, U, V, 2003年

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