生産管理講座
自動車の品質問題の変遷について
小型車戦略によって台頭した日本車
日本製品の品質が話題にスポットライトを浴び始めたのは、1980年6月にアメリカCBSテレビの特集「日本にできて、なぜアメリカはできないの(If Japanese Can, Why Can't We?)」という特集番組がきっかけとなった。
1970年代に、日本車は欧州車をモデルにして少し品質が良く、少し価格の安い小型車で世界の優位に立ち、アメリカ市場で欧州車のシェアーを奪う形でシェアーを伸ばしていった。
オイルショックが追い風となり、最初はアメリカで、その後欧州で販売台数を増やしていった。
第一次石油ショック及び第二次石油ショックによる燃料価格の高騰によって、日本の小型車の販売が世界的に増加した。
特に1979年にアメリカへの日本製小型車の輸出が急増した。
アメリカ議会では日本車輸入急増に対して批判が強まり、全米自動車労連のUAWが1980年7月に輸入車に対する規制を求めてITC(国際貿易委員会)に提訴した。
同年8月には、この提訴に賛同して、フォード社も提訴した。
ITCは慎重に審議し、『シロ』の判決を出した。
アメリカ自動車産業の不振は、日本の自動車会社からの輸出攻勢によるためでなく、景気後退のためであるとした。
アメリカ自動車会社は大型車は減少しているが、日本車と競合している小型車は減少していなかったためである。
ITCの結審により、日本車は法的に規制されることはなかった。
しかし、当時の日本では生産された車のうち50%が輸出され、40%がアメリカ向け輸出であった。
日本の自動車産業が過度にアメリカ市場に依存していたことは否定しようがなく、日米自動車摩擦は過熱状況にあった。
1981年5月に日本の通産省は、対米乗用車輸出を年間165万台に押さえるという日本政府の自主規制を発表した。
アメリカの自動車会社は第一次石油ショックの時から小型車の開発を始めていたが、高い利益率の大型車に対して、ほとんど利益が出ない車種のため、開発があまり行われていなかった。
1981年から82年にかけてハーバード大学や米運輸省などが日米の生産性を比較する調査を行った結果、意外な事実が浮き彫りにされたのである。
たとえば大衆車では、日本車に比べて、アメリカ車のほうが2000ドル近くコストが高く、輸出の輸送費を差し引いてもなお1500ドルも高いことがわかった。
世界一を自任してきたアメリカにとって、この結果は衝撃的だった。
労働集約的な組み立て工程での生産性では、アメリカは日本の1.5倍から2倍もコストがかかっていた。
それでいて、品質面では、アメリカ車の欠陥箇所のほうが日本車の倍近い数字を示していた。(183ページ『トヨタvs.ベンツvs.ホンダ』)
その対策として、GMは“ワールドカー構想”を打ち出したが、失敗した。
量産効果によるコスト削減が最も有効な戦略と考えたのである。
この考えは、ダイムラー・ベンツ社とクライスラー社の合併に受け継がれ、みじめな結果をもたらした。
日本車の場合、1車種あたり年産20万〜30万台程度でも採算がとれた。
しかし、生産性が低いアメリカでは、その程度の生産台数ではとうてい採算がとれない。
量産効果に期待するなら、年産100万台規模で生産していく必要があった。
もちろん、それだけの台数をアメリカ国内だけでは売りさばけないので、世界中に供給していく必要があるということで登場したのが、ワールド・カー構想である。
GMでは、ワールド・カーである小型車のJカー、サブ・コンパクト・カーのSカー、Tカーなどが構想された。
中でもJカー構想は生産もワールドワイドで、50億ドルもの開発資金を投入して、エンジン、ブレーキ、アクスル、トランスミッションなど重要なコンポーネントを世界に広がるGMの生産拠点に割り振って集中的に生産させ、相互供給するというものだった。
いかにも世界のトップ企業ならではのスケールの大きな戦略、大胆な挑戦ではあったが、実際にはことごとく失敗だった。
鳴り物入りで完成した車だが、そのわりには品質や性能面での魅力に欠け、日本車と比べて明らかに見劣りがした。
自動車に対する好みは、国によってかなり違っている。
たとえ安い価格を設定しても、同じ車に世界中の人が一様に飛びつくわけではない。(185〜186ページ『トヨタvs.ベンツvs.ホンダ』)
トヨタ自動車が外国からの見学者を案内するのが古い元町工場だった。
そのため最新の田原工場等には何か特別な仕組み、たぶんオートメーションがあるだろうと考えられていた。
ロボットを工場に配置すれば、ラインのスピードは速くなり、品質も良くなるばかりか、高賃金の労働者も削減できると考えていた。
GMのハムトラミック工場には自動車の溶接、塗装、組立を行なう新型のロボットが260台と、部品を艤装ラインに運ぶ50台の車が備えられた。
カメラとコンピュータを組み込んだ装置が全工程の監視と点検、制御を仕組みだった。
この工場こそが効率と品質の新しい時代を約束し、あらゆる組立工場のモデルになると信じられていた。
だが、ここは悪夢のように非能率的な工場であった。
原因はロボットは考えることができなく、命令されたとおりのことをする。
メッセージが間違えていても、どんどん作業を進め、どんな混乱を招いてもおかまいなしである。
問題が起これば臨機応変に命令を変更できる人間とは違って、ロボットは問題が発生しても、作業を続けるだけだった。
同様にビュイック・シティと呼ばれるミシガン州フリント工場の再活用でも起こった。
豊田市で運用されているトヨタ生産方式を表面的に見ただけで、模倣するのは簡単だと思ってしまった。
建替えをして最新技術を駆使できるよう3億5,000万ドルを要した工場は1985年にオープンした。
ビュイック・シティは、ジャスト・イン・タイム方式で操業されることになっていた。
しかし、工場内のどこもかしこもオートメーションの混乱が目につき、従業員の志気はたちまち低下した。
ビュイック・シティの人間もその部品供給業者も、ジャスト・イン・タイム方式の運用のしかたを全く知らなかった。
VWの巨大な工場、ハレ54でも同様なことが起こっていた。
1982年に21億ドイツマルクをかけたハレ54がオープンした時、世界の最先端を行く高度な自動システムを備えた工場だと宣伝された。
ハレ54では1200台のロボットが導入された。
しかし、ラインの終点では、品質管理担当者の作業員たちが汗だくになり、懸命に働いている。
欠陥車をそのまま先に送って他の人間に修理を預けているのは、バンパー取付け監視員だけでなく、この工場いたる所でそうなのである。
1982年にはJ.D.Power氏が自動車の品質についての調査を始め、日本車の品質の優位を明らかにしていた。
それまでは日本の自動車産業の競争力の強さは、日本人労働者の低賃金による低価格が主な原因であるとされていた。
日本企業の有するユニークな体質について、『部族的な集団行動』は『文化の違い』として処理されることが多かった。
うさぎ小屋にすむエコノミック・アニマルと日本人が揶揄された時代でもあった。
最も不気味に思われたのは、営業利益率の低さを甘受する日本社会そのものだった。
日本が偉いのは、ちょうどアメリカが欲しがっていた燃費の良い車を供給できたという状況面のことだけではない。
日本車の仕上げのていねいさ、狂いのない鋳造、ガタのこないドア、丈夫で長持ちする材質、塗装の丁寧さ、といったところで優れているのだ。
とりわけ重要なのは、苦情のでる割合をつねに低く抑える地道な努力をして、ユーザーの高い信頼をかちえたことである。
技術的には、日本車の大部分はさしてとび抜けた点はないのだ。(エクセレントカンパニーp80)
ディール/ケネディの本が出た1980年代初頭になると、米国では米国企業の生産性の低下を嘆く論調がめだつようになっていた。
それにくらべると、当時、日本企業はうまくやっているようにみえたために、日本の経営を見習えと主張する本も何冊か出版された。
しかし、ほんとうはそんな必要はなかったのだ。日本企業を見習わなくとも、1940年代から1950年代にかけてのGEをはじめとする米国の偉大な会社を見習えばいい。(175〜6ページ『できる社員は「やり過ごす」』)
1985年のプラザ合意により、円がドルに対して大幅に切り上がった。
アメリカ車に対して日本車価格が上回わり、アメリカに比べて日本の賃金コストも高くなった。
この時点で日本製小型車の価格優位性はなくなったと思われたが、依然として日本車は売れ続け、人気は高かった。
日本車のアメリカ車の優位は、日本人労働者の低賃金だけではなく、品質にも差があることが広く認められるようになった。
同時に、日本車と言っても自動車メーカーごとに品質は異なることも明らかにされた。
プラザ合意までは日本の自動車メーカーは、小型車で多額の利益を上げていた。
しかし、プラザ合意以後は小型車では利益が出なくなく、より大きな車の市場に進出していった。
1980年前半のオイル価格の下落によりアメリカの自動車市場が少し大型化したこともプラスに作用した。
トヨタやホンダではそれまでカローラやシビックが主流であったのが、カムリやアコードが主力車種に変わって行った。
トヨタはレクサスを開発し、レクサス販売店を立ち上げ、ホンダもアキュラ店を立ち上げた。
今思えば、日本車は低価格を唯一の武器として、世界を席巻していたことを示していたのではなかろうか。
アメリカ産業界の反撃
自動車産業はアメリカにとって重要な産業であり、自動車産業の衰退は他の産業にも大きな影響力を与え、危機感を持っていた。
そのため官民で協力して、この品質問題に対処するためにUSCARとAIAGを設立した。
USCARは、ビッグ3が共同研究を行うに当たって、その共同研究を総括するために創設された組織である。
自動車産業における各種標準の設定と推進を行っている団体がAIAGで、アメリカの自動車メーカーとサプライヤーを中心とした任意の非営利団体である。
同時に、アメリカの産業界では、日本の生産性本部に相当するAPQC(AmericanProductivity and Quality Center:アメリカ生産性品質本部)を設立した。
そして、日本のデミング賞をベンチマーキングしたと言われるマルコム・ボルトリッジ国家品質賞を創設した。
マルコム・ボルトリッジ国家品質賞は必ずしも日本の品質(信頼性の高さ)や低コストに対応するものではない。
日本の場合は、低コストを唯一の競争力としている面が多い。
ところが、マルコム・ボルトリッジ国家品質賞は顧客満足度を通した収益力向上に、コスト削減が組み込まれている。
当時の日本では、顧客満足度は販売におけるサービスの品質にしか使われていない。
日本以外では、製品やサービス(サービス業)を真正面から扱っていた。
レーガン大統領の下にヒューレット・パッカードのヤング社長を委員長とする「産業の競争力に関する大統領諮問委員会」を設置した。
1986年にアメリカ製造業の競争力強化を促す「ヤング・レポート」がレーガン大統領に提出された。
MIT産業生産性調査委員会はアメリカの品質、生産性に関する調査が行ない、1989年に『メイド・イン・アメリカ』という本を出版し、アメリカ産業に対し警鐘を鳴らした。
自動車産業に関する調査でも、 MITの国際自動車プロジェクト(IMVP)が自動車産業研究を行った。
これらの中で、アメリカ企業の現場を重視しない『頭でっかちの経営』、『官僚的な組織運営』などが徹底して批判された。
日本の製造業の強さの秘密をまず、『プロセスの強さ』、『現場のパワーの強さ』と見出した。
これらの強さは、企業文化や風土によって、社員にビジョンが共有されており、自発的に考え、働く仕組みがあった。
アメリカでも1980年代にアメリカで台頭したウォルマートなどの成長企業の成功の源泉は、企業理念(フィロソフィー)と企業理念を実践するための指針が明確になっていることである。
それによって、社員自らが進んで仕事をする良き企業文化・風土にあり、社員にビジョンが共有されていることに特徴があったことが報告されている。
1980年代には日本の大蔵大臣が“アメリカ人は怠け者”といって政治問題になりかけたほど、現場作業者の質が日米の差と誤解されていた。
本当の問題点は、アメリカの製造業平均の2倍の賃金水準のUAW(全米自動車労働組合)の横暴に問題があったのである。
トヨタやホンダのアメリカ工場では、UAW並みの賃金を払い、日本と同等の品質とコストの車を生産できることを示した。
適性のある労働者を採用し、適切な訓練を施せば、日本人と同等の品質とコストの車をアメリカでも生産できることを証明したのであった。
アメリカの自動車メーカーは、従来あまり目を向けていなかった企業文化や風土に対してより重視するようになった。
最近、資産管理という意味ではなく、会社そのものを収益的な会社にしていくという意味でのプロパティ・マネジメントということが言われている。
海外では、勤務時間前に行なうラジオ体操や時間外に行なうQCサークルが重視されている。
日本では皆さん知っているように、日本ではラジオ体操やQCサークル活動は勤務時間内に行なわれている。
海外ではこのことは十分知られている。
QCサークルや朝の体操を行なうことが重要なのではなく、会社の収益的に良くしようという考えが重要なのである。
アメリカでは会社のために能力を発揮する人たちを守るためにパトロン的な管理者を配置し、生産部門と労働組合に楔を打った。
労働組合はお金が全ての組織である。
労働組合は、会社全体のためを思って仕事をする社員を攻撃する。
経営者は、労働労働組合から自主性や規律を持って仕事をする社員を守らなければならない。
与えられた仕事をよりやりやすくするために、エンパワーメントも行なわれた。
ここでアメリカの研究者は、日本の現場力の強さを的確に把握していた。
たぶんこのことは現在の日本にも当てはまる。
アメリカや韓国等の場合、労働組合と会社の関係は対立であった。
しかし、日本の場合には、強調という段階を通り過ぎて、癒着という状況に入っている。
つまり、まず最初に人事部門と労働組合が癒着して、会社全体の利益ではなく、自分たちの利益を追求する。
次の段階に入ると、生産部門を巻き込んで、徒党組んでしまようになる。
しかしながら、日本に入ってきた日本の産業研究は、短絡的なものであった。
現場力の強さを、QCサークルや生産現場に求めてしまった。
ある作業者の作業スピードが異常に速いことが喧伝された。
そのような作業者が何人もいても、ラインで仕事をしている。
全員の作業スピードが早くなければ、意味がない。
早く作業の終わった作業者は、他の作業者の作業が大幅に遅れない限り、他の作業者を助けることはない。
空いた時間でタバコを吸っているたりする。
生産現場は生産を行なっていれば、なんとなく仕事をしている気分に陥りやすい。
QCサークルを行なって、いるのだから現場力は大きいと誤解してしまった。
現状で給料ももらえているのだから、無理して利益を出さなくてもよいという、おざなりな気持ちになりやすい。
生産部門の人たちを褒めて褒めて褒めて、やる気を引き出すためのスローガンを現実のものと誤解してしまった。
現実にはUAWのように、社内で少しでも多くの給与がもらえれば良いと考えるようになった。
当然のことながら、日本ではエンパワーメントは理解されなかった。
結果、生産部門の独断専行を生み出し、ひたすら生産設備の増強による安価の追求を行なってしまった。
その影響力は大きく、空白の1990年代、就職の氷河期という状況を生み出し、その後の10年も続いている。
生産部門の威光のみのために、形而的な多大なQC活動資料を作成され、過労死という悲劇も生み出してしまった。
これによって、日本企業の本当の強さであった創造と洞察能力を大きく損なってしまったためである。
IMVP研究から生まれた報告書のひとつとして1990年に『リーン生産方式が世界の自動車産業をこう変える』を発表した。
アメリカの製造業に対して警鐘を鳴らすために大々的に日本生産方式を賛美し、日本生産方式の成果は誇張された。
それらはトヨタ生産方式をある一面では理想化し、ある面は表面的なメソッドの面を『リーン生産方式』と呼んだ。
特に、強い影響力を持っていた労働組合のUAWと対峙させるために、日本生産方式を実力以上に評価し、脅威と考える必要があった。
しかし、このレポートの後半部分では、日本の自動車の販売方法である訪問販売が賛美される等の間違いもあり、多くの人たちからレポート全てが正しいとは認識されてはいない。
また、ミシガン大学自動車研究所(OSAT)でもデビット・コール教授を中心に、自動車産業の研究が行なわれた。
これに関しては、日本では話題になることはなかった。
それは、下記のようにホワイトカラー中心に分析された。
- 大部屋にみられる情報の共有
- サプライヤーとの会社の枠を超えた強いつながり
- 常にひとつ上の階級の仕事を行う社員
アメリカの産業界は、設計、製造、営業の各部門を隔てていた組織の壁を壊し、同時に社外の提携業者とのコミュニケーションも改善することによって、この問題に対処した。
デザイナー、技術者、部品製造業者、それに製造・組み立てスタッフが、電子的にコミュニケーションをとりながら緊密なチームとして働くようになり、設計からショールームの展示までの時間を半分以下に短縮した。
他のプロセス改善も、コンピューター支援設計(CAD)を始めとする技術に大きく支えられてきた。
CADアプリケーションの3Dモデリング機能のおかげで、技術者は模型を手作りしなくても車両を設計することができる。
デザイナーは、試作品をつくる手間をかけずに、部品がぴったり収まるかどうか確認でき、部品のデザインを変更することができる。
部品供給システムの効率を上げるための情報技術の利用によって、すでに部品納入のエラー率が72%減少し、車1台にかかる人件費が週当たり最高8時間分も減少している。
1990年には、フォードは、コンセプトの段階から車を消費者に届けるまで5年余りかかっていたし、車100台当たり150ヶ所、すなわち1台あたり1.5ヶ所の欠陥があった。
1998年には、サイクルタイムは半分以下の24ヶ月弱に短縮され、欠陥率は100台当たり81ヶ所に減少していた。
なお、自動車産業では3次元CADの効果が大きかったが、日本では2次元CADにこだわったため、3次元CADの導入が遅れた。
常にひとつ上の階級の仕事を行う社員として、現場への権限委譲、現場中心の運営のエンパワーメントがあった。
品質管理手法として田口玄一氏が考案したと言われているタグチメソッドも活用された。
田口玄一氏は本田宗一郎氏・豊田英二氏に次いで1997年に「自動車の殿堂」(ホール・オブ・フェイム)入りを果たしていることからも、タグチメソッドの貢献の大きさが図られる。
タグチメソッドは1980年代にアメリカで名づけられたため、日本ではダグチメソッドの知名度は低い。
タグチメソッドは下記の2つを使い、バラツキを小さくする手法である。
冒頭で書いたNBCの特集番組によって、フォード社はデミング博士を非常勤顧問に招き、指導を受けることを決める。
1981年に、フォードとそのサプライヤーに対して指導を行うための教育機関FSI(Ford Supplier Institute)が、フォード社内に設立された。
一方、デミング博士は、日本企業の品質管理活動の実態を把握するために、日本に調査団を派遣することを勧める。
調査団一行が日本電装を訪れた時、田口玄一氏がたまたま実験計画法の手伝いをしていた。
フォード社は1982年に田口玄一氏を招聘し、フォード社で直交表を用いた実験計画法、SN比、損失関数といった品質工学の講義を行った。
フォードはまた1983年に日本科学技術連盟に品質管理の専門家の派遣を要請し、石川肇氏が派遣されたが、うまくいかなかったようだ。
(『デミングで甦るアメリカ企業』アンドレ・ガボール著)
フォード社は3000社あったサプライヤーのグレード付けを始め、品質管理水準を到達した部品会社をQ1とした。
品質改善を行い、工程能力指数が1以上でないと長期契約を結ばないという『足きり』を設けた。
結果、最終的にサプライヤーは300〜400社程度に絞り込まれることになった。
なお、FSIは1984年にフォード社から独立して、ASI(American Supplier Institute)と名称を変更し、広く教育、訓練、コンサルティングを行う組織になった。
その他、日本で開発された品質機能展開は、ハウス オブ クオリティと呼ばれ活用された。
同様に、事後のVE(セカンド・ルック・VE)から商品企画・開発段階へのVE(ゼロ・ルック・VE)へと重点が移った。
これらの結果、アメリカの自動車産業は1990年代に日本車と互角の品質に達し、生産コストは日本車を抜いたと言われている。
日本の品質管理は『品質は工程で造り込む』という流出管理を主にしていて、欧米は『品質は設計で造り込む』とい特徴がある。
プロセス・マネージメントは、最初はビジネス・プロセス・リエンジニアリングとして紹介された。
ベンチ・マーキングを行う対象として日本の自動車会社が選ばれた。
長谷川洋三著の『ゴーンさんの下で働きたいですか』には、『GMの工場の目標はすべてがトヨタ自動車の数字です。GMの品質管理の方法も生産性の上げ方もスピードの出し方も、トヨタ自動車の数字です』と書いてある。
日本企業の恣意的な判断や勘・経験・度胸による成り行き管理を客観化し、標準化(マニュアル化)し、ソフトウェアとして昇華していった。
フォードは品質改善運動の初期に、1つのアプローチとして日本のパートナーであるマツダの製造工程をビデオに撮り、それをヨーロッパやアメリカ・フォードの工場労働者に見せた。
その中に布製のヘッドライナーをクルマの天井に付ける工程があるのだが、1人の作業者がこの部品を取り付けるのに1分もかからなかった。
フォードの典型的なヨーロッパの工場では、同じ作業に4人で6分もかかっていた。
確かに24対1という生産性のギャップは弁護のしようがない。
だが、同じくらいに確かなのは、この差が生産ラインの作業者だけの責任ではないということである。
マツダにはたった2種類のヘッドライナーしかないのに、フォードには山ほど種類があった。
マツダでは生産ラインを流れる車のタイプに合わせて、ヘッドライナーが生産現場に納品されていた。
マツダのヘッドライナーはかちっとはめ込むだけのタイプであるのに対して、フォードのものは面倒な接着作業が必要だった等々。(181ページ『コア・コンピタンス経営』)
日本のものづくりの強さは、消費者の要望に沿って、設計を簡素化するファースト・ルックVEの強さだったのである。
生産部門の強さは、一部にしか過ぎなかったのである。ただ、アメリカと日本の自動車産業を比較した時、違いが大きかっただけである。
アメリカ自動車産業の復活
GMは1990年代に入ると3期連続で巨額の赤字を計上した。
1992年に、事業組織の合理化、生産能力・人員削減、販売体制縮小、不採算事業の売却、部品コストの削減、プラットフォーム数の削減による開発効率の向上などに着手し、めざましい成果を上げた。
1993年から黒字に転換し、1995年には過去最高の純利益を記録した。
フォードも1991年、92年の不振から脱し、生産効率の向上によって、1993年に過去最高の純利益をあげた。
クライスラーも1990年代はじめに再び資金不足に悩んだ。
しかしその後、非自動車部門の売却や開発体制の見直しにより、経営体質を立て直し、得意のミニバン市場の拡大に支えられて、ビツグ3の中で最も収益性の高い企業になった。
ビック3は生産性を向上させて、黒字に転換したのではなかった。
1990年代初め、日本車の競争力は、欧米企業にキャッチアップされたと考えられる。
ビック3の生産性は向上したが、乗用車市場では利益は上がらないと考え、大型ピックアップトラックやSUVに事業を集中させたのである。
日本車の競争力は、次の3点に集約されると考えられる。
- 現場における作業者の質の高さ − 生産における習熟効果
- シンプルな設計(設計におけるVE)
- 商品を開発し、改良して、消費者の嗜好に合う製品を作り出すマーケッティング(探検的マーケッティング)
また、アメリカの産業界と学会は、1990年代にトヨタ生産方式のコアになる考え方を解明したようである。
ラーニング・オーガニゼーション、コーチング、エンパワーメント、バランスド・スコアーガードのバランスを取る部分などに解明していったようである。
その核心部分は、人の使い方にある。
それは、長年かかって人を育ててきた結果なので、なかなかキャッチアップできないのが現状らしい。
それに対して、負け組み企業はアメリカ企業の悪い体質を、社内に持ち込んでしまった。
日本が生産現場の強さに気をとられている間に、アメリカ企業にシンプルな設計という面で負いぬかれてしまった。
日本のボトムダウンの改善による設計では、アメリカ流のトップダウンによるシンプルな設計は実現は真似できない。
ホンダのクルマだけでなく、現在の水準でいえば、かつての日本のクルマはことごとく過剰品質だった。
品質を売りものにしていた90年ごろまではそれでよかったが、90年以降、ムダを省いたクルマを徹底的に研究して、低コストのクルマを日本車にぶつけてきたのだ。
これがグローバルなコスト競争の始まりだった。
特に米国勢は日本車を隈なく研究して、日本の過剰品質を反面教師に、低コストのクルマを作り上げた。
なかでも、かつてクライスラーは、ホンダに教えを乞い、自社の開発・製造技術を改善していたほどだ。
そうして、クライスラーは93年に低コストの中型セダン「LHカー」を米国市場に投入した。これにはホンダも驚いた。
「すぐに研究所で買って、バラしてみたら設計がもの凄く良かったんで、こっちは真っ青になった。
設計がシンプルで、部品点数も圧倒的に少なかった」
と話すのは、その頃コスト削減を担当していた永田栄・本田技術研究所元常務だ。(101ページ『トヨタとホンダ』)
欠陥のなさという信頼性という品質に代わって、キビキビと走る等のソフトな魅力的品質に品質競争の舞台が戻った。
つまり、1990年頃まではおざなりのクルマでも、信頼性が高く、価格(コスト)の安く生産することが競争力であった。
しかし、それ以降は価値創造の時代といい、消費者に対して新しい価値を提供できるかどうかが、つまり消費者対応能力が競争力になった。
欧米の自動車メーカーがコストで日本メーカーを追い抜いたのは、エンパワーメントとITによる業務改革による創造力の強化であった。
日本の自動車産業研究では、部品会社の系列を強調してしまった。
一方アメリカでは、パートナーとして長期的協力関係を構築できる、技術力のある部品会社に集中して発注する方式がとられた。
部品会社としてできる最大の貢献が、部品単価の引き下げであった。
その部品単価の引き下げを可能にしたのは、顧客指向に基づいた装備の絞り込みによる大量発注であった。
例えば、消費者に密着して生活行動を調べ、ターゲットとする消費者に合せて、思い切った装備の絞り込みを行った。
装備の絞り込みを行うことによって、部品会社に大量に発注し、品質の高さを保ったまま低コストを実現した。
1992年5月に欧州GMから、GMの国際購買事業部長になったイグナシオ・ロペス氏の話しが有名である。
多くのサプライヤーから入札価格を求め、それぞれの価格、品質、サービスを基準として最終候補を数社選ぶ。
それからどの入札価格よりも低い目標価格をあげて、候補となった業者にその価格に合わせられるかどうかを打診するやり方をとった。
GMは部品供給者にたえず価格の譲歩を求め、エンジニアリングと研究の無償援助を要求して、従来の部品供給の慣行をひっくりかえした。
サプライヤーのコストと品質が、工場の最終コストと品質に大きな関連を持っている。
そのために部品供給業者のコストを低減し、彼らがよりよい製造慣行を身に付け、利益が得られるように手助けすることであった。
ロペス氏はPICOS(Purchased Input Concept Optimization of System)重要視し、それは品質、サービス、価格設定を重視したシステムである。。
PICOSチームはサプライヤーに5日間に渡って、製造工程の改革にあたった。
PICOSのトレーニングを受けたサプライヤーは、労働力、生産性、空間の活用、在庫投資のあらゆる面で大幅に改善され、入札価格を引き下げても充分な利益を上げられるというのであった。
これは現在フォード社が導入しつつあるフル・サービス・サプライヤーの概念と全く同じである。
これまでフォード社内で手掛けてきた自動車部品の企画・開発から設計、品質保証までを部品メーカーに任せる担当させるもので、フルサービスサプライヤー(FSS)制度と呼ばれる。
フルサービスサプライヤーは、これによって部品メーカーの責任範囲が広がるため、個別の取引きごとにコスト削減目標などをあらかじめ徹底させようとするものである。
車種・プラットフォームの削減、部品の削減・共通化、部品ユニット・モジュール化がある。
ルノー社の『オプティマ』制度と呼ばれる1社集中購買制度がある。
品質やコスト、研究開発力などルノーが独自に定めた基準をクリアした企業を『オプティマ・サプライヤー』と認定し、認定された企業には、過半のシェアと大量発注が約束される。
オプティマ・サプライヤーは、この安定した受注関係の見返りに、最新の技術・商品の提供と、ルノーとともに定めたコスト目標の達成を約束する。
日本自動車産業の再出発
21世紀を直前に控えて、11社ある日本の自動車会社の内、独立して事業を行っている企業はトヨタ自動車とホンダ技研工業の2社のみとなった。
実に11社のうち7社まで、外国の自動車メーカーの傘下やグループに取り込まれた。
最近、GMとフォード社の経営危機により、富士重工はGMとの資本提携を解消し、トヨタと資本提携した。
いすゞとトヨタと提携し、スズキの提携は事実上解消された。
三菱自動車はダイムラークライスラー社との提携を解消し、ダイムラークライスラー社はクライスラー社の79%を投資顧問会社サーベランスに売却し、ダイムラー社に名称を変更した。
1980年代に世界を席巻した日本の自動車産業全体は、1990年代には成長することなく、欧米企業にあっさりと追い抜かれた。
アメリカの自動車研究は、アメリカの自動車産業の弱点を強調し、警告を与えるものだった。
日本の自動車産業が強い面のみが強調され、日本の弱みは問題にされていなかった。
これをそのまま日本に持ち込んだものだから、日本企業は浮かれてしまった。
自動車産業での日本メーカーの強みは、クルマの基本的な走る・曲がる・止まるの機能に関係したものではなかった。
ただ、仕上がりの良さ等の副次的な事柄や、故障しないという信頼性の高さであった。
欧州メーカーを中心に、日本車をモックアップと称していた言葉が的確に当たっていた。
ドアとボティの隙間等の副次的な事柄に対して、『モノ造りの強さ』と言ってしまった。
例えば、昔は店はきたないが、味はとても良い店があった。
ところが、時代の流れで、店がきたないとお客さんが入らなくなった。
これが欧米の自動車メーカーである。
日本の自動車メーカーは味はそこそこであるが、店の雰囲気がとても良かった。
アメリカ帰りの大学教授に、店の雰囲気の良さのことを『モノ造りの強さ』などと言っておだてられ、その気になってしまった。
不振に陥って味の良い店が、雰囲気を改善すれば、当然のことながら雰囲気だけ良かった店は廃れる運命にある。
『すり合わせ技術』は『妥協』の産物でしかない。
走る、曲がる、止まるの技術は、徹底するところは徹底しなければ、一定水準を達成することはできない。
見栄えの良さのための安易な妥協である『すり合わせ技術』では、国際的に通用する走りの性能を達成することはできない。
欧米では1980年代の早い時期から日本車のことをモックアップと呼んでいた。
欧米企業が日本の品質にキャッチアップしてきたが、QCサークル等の日本の手法を導入したわけではなかった。
最も大切なのは、QCサークルの心である。
PDCAの管理サイクルもプラン-ドゥ-チェック-アクションを棒読みにしている。
PDCAの形而上の考え方など必要ではない。
会社のために何ができるか考え、計画を考え、試行していけば、おのずとPDCAになっていく。
アメリカではQCサークルの替わりにワーク・アウトという方法がとられた。
でも、基本的な考え方は、QCサークルと同じであった。
その結果、日本の自動車産業研究は、日本企業を勝ち組みと負け組み企業に2分化された。
勝ち組企業は、QCの心をかろうじて持ち続けた会社であった。
1993〜1995年にかけて、厳しい円高危機に直面した日本の自動車企業であったが、かつてコストダウンの主役だった生産現場での地道な改善活動もすでに数10年続いており、その分野では収穫逓減の傾向が不可避であった。
この段階で、さらに大幅なコストダウンを工場の現場のみに期待するのは無理だったのである。
そこで、新たな切り札として登場したのが、肥満体質ぎみだった製品設計の思い切った簡素化である。(316ページ『能力構築競争』)
トヨタ自動車の場合、設計改善・工場改善・物流改善による原価改善(コストダウン)は、平均すれば年間1400億円以上のペースで10年ほど続き、21世紀初頭における同社の利益創出に貢献した。
そして、この原価改善の実に8割近くが、設計合理化によるものだったのである。(317ページ『能力構築競争』)
日本自動車メーカーのものづくりの強さは、ムラ、ムリ、ムダの中でも特にムラの削減にあった。
平準化による生産管理、部品点数の削減による設計の合理化、サプライヤー管理の広い分野においてムラの削減が行なわれた。
特に効果があったのは、サプライヤーの管理である。
売れ筋のクルマがコロコロ替わっても、サプライヤーへの発注量がかわらなければ、サプライヤのコストは低下する。
トヨタ自動車は、1980年代からバブルの時にかけて、他社のモノマネして、他社よりも早く開発し、低コストで生産できると考えていたように見受けられる。
トヨタの奥田元社長は、「社徳」、「チャレンジ」という言葉をキーワードとして、独自の商品をスピード感を持って開発するようになった。
“二番手戦略”とか“石橋を叩いて渡る”に象徴される事業形態から、スピードを重視したチャレンジ精神旺盛な事業に転換した。
本田技研では、川本社長時代に自由闊達な企業風土は維持しながら、オタクにはまった商品開発を、消費者の嗜好に基づくものに変えた。
もうひとつ、設計合理化によるコスト管理を重視した。
このように日本のものづくりの強さは、消費者の嗜好に基づいた製品を、設計の合理化によって低コストで生産することにあった。
1980年頃から偏向し始めた。
まず、1980年代初めに行なわれたTQC活動であった。
次に、1980年代後半に、日本の自動車産業を中心とした研究が行なわれた。
アメリカでは、日本の産業の強さを的確に掴んでいた。
経営者マインドを持つ社員が多いという、現場力の強さを指摘していた。
この研究が日本に入ってきた時に、日本のものづくりの強さを生産現場のみ、つまりテクニック(技能)とテクニシャン(作業者)の強さのみと誤解するようになってしまった。
自動車産業が競争力を持っているのは、テクニシャンの質が高いから、開発能力が高いのもテクニシャンの質の高さによると短絡的な結論を導き出した。
この時に、日本車の競争力の強さは、日本の産業が一般的に持っていた仕上げの良さから派生したものであった。
信頼性という品質の高さは、仕上げの良さによって副次的なものだったのであろう。
当時も今も、車造りにドアとボディの隙間が何mmというのを品質の主な指標としていた。
日本の製造業が世界を席巻していた1980年前半でも、日本の自動車会社は国際的に見ても営業利益率は格段に低くかった。
製品の完成度は高くコストが低くても、製品そのものが持っている魅力は低かったものと推定される。
それを更に価格(コスト)を下げることで、販売を伸ばそうとしてきたのである。
つまり利益率の低さを、生産設備を増強し、量産効果でカバーしようとした。
しかし結局のところ、競争の原理により部品会社の収益を自動車会社が吸い取ることによって、利益率を上げてきた。
そのことにより、1990年代からずっとデフレが続いており、今後いつデフレから脱却できるかわからない状況になっている。
この結果、2008年のトヨタショックと言った結果に結びついたと考えられる。
日本の製造業に不足ているのは、装備を組み合わせることによって付加価値を上げることである。
つまり、世界の人々を引き付ける製品造りであり、顧客満足の高い商品を開発し、販売することである。
トヨタ自動車でも相当な努力をしているが、なかなか習得できていない。
“仕上げの丁寧さ”のみの品質では、既に収益低減状態にあり、欧米等のライバル会社との差はほとんどなくなっている。
世界の人たちが何を求めており、それをいち早く製品化しなければ、人口が減少していく中で日本の存在感はなくなってしまうだろう。
そのためにも、経営管理能力を高めなければ、日本には部品会社しか残らなくなってしまう。
アメリカでの品質調査
参考ホームページ
参考文献
- 『トヨタvs.ベンツvs.ホンダ』 前間 孝則著 2002年1月20日 講談社+α文庫
- 『トヨタとホンダ』 塚本 潔著 2001年12月20日 光文社新書(016)
- 『もの造りの技能』(自動車産業の職場で) 小池和夫・中馬宏之・太田聰一著 2001年1月29日
- 『自動車 合従連衡の世界』 佐藤 正明著 文春新書(125) 2000年9月20日
- 『タグチメソッド わが発想法』 田口玄一著 経済界 1999年11月3日
- 『メイドイン・アメリカ』 M.L.ダートウゾス他著 1990年3月5日 草思社
- 『マルコム・ボルトリッジ賞の衝撃』 味方 守信著 日刊工業新聞社
- 『リーン生産方式が世界の自動車産業をこう変える』 ジェームズ・P・ウォマック、ダニエル・ルース、ダニエル・T・ジョーズ著 1990年 経済界
- 『米国自動車産業躍進の戦略』 原田健一著 工業調査会
- 『エクセレント・カンパニー』 T.J.ピーターズ&R.H.ウォータマン著 1983年7月18日 講談社
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