1980年、ホンダは乗用車工場の建設を、日産は小型トラックの現地生産を表明していた。
参考文献
2回のオイルショックで伸びた日本車
ホンダは2回のオイルショックをバネに大きく販売台数を伸ばしていた。
特に、排ガス規制のマスキー法を始めてクリアーしたCVCCエンジンで企業イメージが大きく向上していた。
ホンダがコンサルタント会社の「ファンタス」に米国現地生産に向けてのFS(事業化事前調査)を依頼したのが1976年であった。
乗用車生産はリスクが高いため二輪車の生産から始めたが、いつでも乗用車工場が建設できるように広い敷地を確保した。
これに対してホンダはコンサルタントに調査を依頼する一方で、社内に秘密のプロジェクトチームを結成して着々と準備を進め、まずオートバイでの進出を決断した。(108ページ『自動車 合従連衡の世界』)
ホンダは1980年1月に、乗用車の現地生産を発表し、1982年から生産を開始した。
大衆車の『シビック』のみならず、79年にモデルチェンジした『アコード』も発売当初から爆発的な売れ行きをみせた。
その一方で、この年の9月からオハイオ工場での現地生産を始めた直後に早くも乗用車の現地生産に向けて事業化事前調査(フィジビィリティ・スタディ=FS)に着手した。(94ページ『自動車 合従連衡の世界』)
久米は、社長就任の翌年、84年の新年記者会見で、オハイオ工場の乗用車生産ラインをもう一本新設し、カナダにも乗用車工場を建設することを明らかにした。(80ページ『ホンダのDNA継承術』)
そののち、同じオハイオ州にイーストリバティー工場を立ち上げた。
2001年12月4日、吉野浩行は、米国アラバマ工場の竣工式で、こう挨拶をした。
米国で増え続けるミニバンやSUVの注文に応えるためアラバマ州に建設した同工場は、建設開始から生産開始まで1年半という記録的なスピードで完成した。
生産開始を早めようとオハイオやカナダの工場の従業員がアラバマに詰めかけ、立ち上げに積極的に協力したためだ。(92〜3ページ『ホンダのDNA継承術』)
日産自動車はダットサントラックと呼ばれていたピックアップトラックの生産を決めた。
乗用車生産しなかった誤りを犯したとの意見もあるが、ダットサントラックが売れていたことも車種決定の理由であろう。
80年1月の名古屋における記者会見の席で石原は、「対米進出時の生産車種は小型トラック」との方針を打ち出した。(114ページ『自動車 合従連衡の世界』)
日産自動車は1983年に、テネシー州ナッシュビル近郊スマーナにおいてピックアップトラックの生産を開始した。
そのスマーナ工場では、遅ればせながら86年から乗用車の生産に踏み切った。
しかも1日も早く軌道に乗せるべく、車の売れ行きにかかわらずフル操業をさせる方針をとり、現場のマネージャーには生産高に応じてボーナスを支払うシステムを採用した。
これでは販売部門はたまらない。
ちなみに、スマーナ工場は労働組合UAWは入っていない。
(中略)
販売会社は大量の在庫を抱えた。それを処理するため、多額のリベートを使った大幅値引きが横行してしまった。いってみれば投げ売りである。
その同じ時期にスマーナ工場は、生産性が向上したという理由で、本社から表彰されるというチグハグサである。(185〜6ページ『自動車 合従連衡の世界』)
また、日産はフォードとミニバンの共同生産を行なっていた。
フォードと日産は88年以来、RVの開発で共同歩調をとっているが、実態は日産の開発したRVをフォードの米国工場で生産し、その車を日産も米国市場で販売しているに過ぎない。(196ページ『自動車 合従連衡の世界』)
1999年に日産自動車とルノーが提携し、リバイバル・プランを発表した。
リバイバル・プランとは別に、CEOのカルロス・ゴーンはフルサイズトラックの新工場建設の意向を発表し、その後ミシシッピー州キャントンに工場が建設された。
フルサイズトラックはビッグ3の最大の収益源であったため、なかなかこのクラスへの参入を決められなかったトヨタもアラバマ工場の新設を決めた。
日産の最高執行責任者(COO)に就任して間もないゴーンが、現状把握に駆け回っているとき、ジェッド・コネリーと松村矩雄が、ゴーンとディーラーが顔合わせする会合を設けた。
そこで、ディーラーが異口同音に口にしたのは、日産がアメリカで新しい顧客を掘り起こすにはフルサイズ・ピックアップ・トラックが不可欠だという主張だった。
ピックアップ・トラックの投入はその場で決定され、日産はアメリカで2つ目の工場用地の選定を始めた。(226ページ)
日産が2000年11月に発表した計画では、投資金額は9億3000万ドルで、4000の雇用を創出する予定だった。
将来増設が簡単にできるように、工場の形状はE字型のデザインである。
(中略)
ところが、野心的な「日産180」で掲げた目標を実現するためには、アメリカ市場での成功は不可欠である。
こうした背景から2004年の終わりまでに車両生産台数を30万台増加させる必要がでてきたため、工場拡張のスケジュールは前倒しで実行することになった。
ミシシッピ州のキャントン工場には、5億ドルの追加資金が投じられた。
新たに1300人の雇用が発表され、年間車両生産台数も25万台から40万台に引き上げられた。
アルティマの爆発的なヒットに対応するには、どうしても工場を拡張する必要があったのだ。
(中略)
日産はキャントン工場で、新型のクエスト(かつてアメリカでフォードと共同生産していた車をフルモデルチェンジする)、新型のフルサイズ・ピックアップ・トラック、インフィニティ、日産ブランドのSUV(スポーツ・ユーティリティ・ビークル)を生産する計画である。
その結果、キャントン工場への投資額は、10億4300万ドルに膨れ上がり、工場の敷地は100万平方フィート増え、総計で400万平方フィートになった。
さらに、日産は第二塗装工場の併設も決定した。
キャントン工場に建設中の塗装工場は、同工場で生産されるフルサイズ・ピックアップトラック、バン、SUVの塗装をする。(273〜4ページ『ターンアラウンド』 ところがトヨタといえば百万ドルを投じてスタンフォード研究所、アーサー・D・リトル、野村総合研究所の日米のシンクタンクに対して対米進出の可能性の調査を依頼したにすぎない。(120〜1ページ『自動車 合従連衡の世界』)
そして、トヨタ自動車は1980年からフォードと現地生産について交渉することになる。
このいきさつは、『決断』(私の履歴書) 豊田英二著 2000年11月5日 日経ビジネス人文庫 に詳しい。
そして5月にはUAWがしびれを切らし米国自動車産業の救済を求めて米国際貿易委員会(ITC)に提訴した。
これを機に日米の両国で「提訴された最大の原因は、トップメーカーのトヨタが重い腰を上げないことにある」という見方が定着した。
しかし、フォードとの提携は失敗に終わった。
「両者が折半して米国に合弁会社を設立し、トヨタが開発したFF(前置エンジン、前輪駆動)式の排気量2000cc級の小型乗用車をフォードの遊休工場を使い、年産20万台規模で生産し、それぞれの販売網を使って売りませんか」(121ページ『自動車 合従連衡の世界』) 交渉が始まった直後の8月4日にフォードは突然、「日本車の急増で米自動車産業は大きな打撃を受けた」としてUAWに追随してITCに提訴した。
「右手で交渉しながら左手で殴りあう」フォードのドライな行動にショックを受けた。(128ページ『自動車 合従連衡の世界』)
トヨタは新たにGMと交渉することになった。
スミスと英二のトップ会談が極秘裏にニューヨークで開かれたのは、それから70日後の82年3月1日のことだが、(中略)。
はっきりしているのは世界の自動車業界を震撼させたGMとトヨタの提携交渉は順調に推移したわけではなく、紆余曲折の連続だった、ということだ。
トヨタは1984年にNUMMIの工場で生産開始した。
1988年にはトヨタ単独で進出したケンタッキー工場が稼動した。
英二はこの年の7月の工販合併を機に新生トヨタ自動車の会長に退いた。トップ会談の直後から始まった実務ベースの交渉にも一切口を挟まなかった。
例外的に口を出したのが、トヨタ社内の空気が決裂に傾きかけたその年の晩秋である。英二はトヨタ側の交渉団を前に自分の考え方を述べた。
「両社の利害が対立し、歩み寄りが見られなければ決裂もやむを得ない。といって対米輸出は避けて通れない。
君たちは今GMとの交渉を白紙に戻し、単独で進出する自信があるのか。
一時の感情で決裂の方針を私に進言してきても、会長にはそれを拒否する権利がある。交渉とは粘り強く進めるものだ」
交渉団はこの一言で、英二のGM提携にかける姿勢が不退転であることを察知した。
それを機に両社は歩み寄りが見られ、83年の年明けに基本合意に達し、2月24日にはそれぞれ役員会で合弁計画を了承。
その4日後には生産予定地のサンフランシスコ郊外にあるGMのフリーモント工場で両社のトップが提携合意書の調印式を行ない、4月4日には米連邦取引委員会(FTC)に「事前届け出」を提出した。
巨大提携きFTCに委ねられることになったが、クライスラー会長のアイアコッカはこれを待ちかねていたように、FTCに対して合弁計画に反対する意見書を提出した。
フォードも米議会下院の公聴会の席で、FTCが合弁計画を阻止するよう要請した。
通常ならFTCの審決は二ヵ月程度で出るが、FTCは業界と世間の反対の声に配慮して慎重に審議を重ね、12月に入って同意審決案を提示した。
両社がこれを受け入れたことから、FTCは9項目からなる同意審決を3対2で採択した。
そして委員会のミラーは同意審決の理由を語った。
「両社の合弁計画は競争を制限する可能性よりも、競争力ある小型車を米国で生産することで、米国民にもたらす利益の方が大きいと判断する」
世界一厳しい独禁法の番人の司法当局が「巨大提携は米国の消費者の利益に適う」と判断したのである。
ただし合弁期間は最長12年に限定されている。
両社は直ちに新会社の「ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング」(NUMMI)を設立した。 (中略)
トヨタはGM合弁で米国現地生産に自信を持ち、85年夏にはケンタッキー州とカナダ(オンタリオ州)に単独で乗用車工場の建設を決め、米国を日本に次ぐ生産基地にする足かかりをつかんだ。
さらにその後、90年に入って展開される世界規模での自動車再編劇で、大きな役割を果たすことになる。(141〜3ページ『自動車 合従連衡の世界』)
1995年の日米自動車交渉で、トヨタ自動車は「新国際ビジネスプラン」で交渉を合意に導いた。
1980年の日米自動車摩擦で現地生産を発表できなかった汚名を注いだ形になった。
書面には次のようなことが記されていた。
トヨタ自動車の北米第四の工場として、インディアナ州にトヨタ・マニュファクチャリング・インディアナ(TMMI)が1998年に稼動し始めた。
「TMM(ケンタッキー工場)の生産能力を、98年までに50万台に引き上げる。
TMMC(カナダ工場)の生産能力を、98年までに20万台に引き上げる。新工場設立の検討を進める。
98年までにミニバンを含め、新車種3〜4モデルの現地生産の検討を進める」
この中でいう新工場とは、95年11月8日に新聞発表した、中型ピックアップトラック「T100」向けの新工場建設計画(当時年間10万台)だった。
実は、トヨタは利幅の大きいピックアップトラックの現地生産のチャンスを、虎視耽々と狙っていたのだ。(151ページ『トヨタとホンダ』) 約7億ドル(約8百億円)の金額を投じたTMMIは、インディアナ州のエバンズビル市近郊に位置する。
広大な敷地には拡張に備える未利用地も多く、周囲の森林や農地は地元に提供している。
当面、「タンドラ」というピックアップトラックを年間10万台生産する計画だが、2000年後半から同車種をベースとしたSUV(スポーツ・ユーティリティー・ビークル)を同5万台追加生産する。(195ページ『トヨタ「奥田イズム」の挑戦』)
本格生産の開始から9ヵ月後の99年夏までに2直フル生産体制の確立を目指している。
ケンタッキーの立ち上げではフル生産まで18ヵ月をかけており、これに比べて半減することになる。
トヨタ自動車の北米第五の工場として、トヨタ・モーター・マニュファクチャリング・ウエストバージニア(TMMWV)が1998年に稼動した。
社員の採用も前倒しし、98年夏までには全体の77%にあたる約千人を確保した。
当初は6割程度の充足率でその後は徐々に社員を増やしたケンタッキーに比べ、多くの社員をスピード育成する必要に迫られていた。(200〜1ページ『トヨタ「奥田イズム」の挑戦』) 12月11日にはトヨタ・モーター・マニュファクチャリング・ウェストバージニア(TMMWV)の開所式が開かれた。
トヨタにとって米国で初のエンジン専用工場で、約4億ドル(約5百億円)を投じて「カローラ」用エンジンを年間30万基生産。
これで、北米で生産するカローラのエンジンはほぼ現地化できる。(196ページ『トヨタ『奥田イズム』の挑戦』)
三菱自動車は三菱重工とクライスラーの合弁会社としてスタートした。
三菱重工とクライスラーは70年2月に基本契約を交わし、6月1日に三菱重工100%の出資で三菱自動車工業を設立した。
契約では71年の9月末までにクライスラーが15%出資、それから1年後と2年後にそれぞれ10%上積みして、最終的に拒否権を発動できる35%まで引き上げることが契約書に記載された。
1980年代に入り、米国市場で販売契約を改定した。
しかし72年5月になってクライスラー会長のタウンゼントは三菱重工に対して、突然「収益見通しが良くないため、出資比率を将来にわたって15%にとどめる」と提案してきた。
付随契約書で米国市場で三菱車の販売権を取得したこともあり、クライスラーとしては35%の株式を取得する意味が薄れたわけである。
クライスラーは15%の出資にもかかわらず、その後も35%出資の権利を行使してきた。(26〜7ページ『自動車 合従連衡の時代』) 83年6月にそれまで企画担当役員としてクライスラーとの交渉に当たってきた常務の舘豊夫が新社長に就任した。
そして翌84年1月に訪米してアイアコッカと会談した際、株式上場に向けて基本契約の見直しを申し入れた。
(中略)
そして、三菱自工は経営危機を脱したクライスラーと合弁で米国現地生産を始めることとなる。
三菱自工はこと資本面に関しては、提携解消から一転出資比率の引き上げへコペルニクス的な転回をはかったのである。
確かに出資比率は高まるものの、クライスラーの発言力は従来の35%から出資比率どおりの24%へ低下する。
さらに株式を上場すれば支配力も衰え、単なる大株主に押し込めることができる。
三菱自工は提携15年目にしてクライスラーの呪縛から解き放たれた。(100〜1ページ『自動車 合従連衡の世界』) 資本提携発足当時は大人と子供ほど違いがあった企業規模も、こと生産台数に関してはほぼ互角となった。
両社の利害が一致したのが、米国における乗用車の共同生産である。
投下資金は5億ドル。生産車種は三菱自工が開発したスポーティーカーとセダンの2車種で、デザインについてのみ両社で協議することにした。
生産規模は年産18万台で、両社が半分ずつ引き取る。また合弁会社の運営と工場の設計・建設については三菱自工が責任を持つことになった。
所要資金5億ドルのうち資本金を除いた残りの3億5千万ドルは、合弁会社がリースや借り入れで賄うことになった。
クライスラーは資本金の7千5百万ドルを拠出するだけで、年間9万台の新車を手に入れることができるわけである。(101〜2ページ『自動車 合従連衡の世界』) スタート当初の社名「ダイヤモンド・スター・モータース」(DSM)のDはスリー・ダイヤモンド、Sはクライスラーのマークである5つ星からとったものである。
DSMは1988年に稼動を始めた。
出資比率は日米対等で、日本側は自工が35%、商事7.5%、銀行3%、米国三菱商事2.5%、信託銀行2%となっており、会長はクライスラー、自工は社長を派遣し、経営全般をクライスラー、工場運営を三菱自工が担うことでスタートした。
ところが90年代に入ってクライスラーの経営が再び悪化したことから、その救済のたに91年10月にクライスラーが持っているDSM株を日本側が総額1億ドルで買い取ることになった。
普通ならリスク分散の意味合いから三菱グループ各社が出資比率に応じて引き取るのが筋だが、なぜか自工1社で買い取った。
その直後にDSMは赤字解消のため倍額増資するが、自工以外は払い込まなかったことから、最終的にDSMの自工持ち株比率は92.5%に達し、社名もMMMAに変更した。(158〜9ページ『自動車 合従連衡の世界』) 1971年以来、資本提携の関係にあった旧クライスラーが保有していた三菱自動車株は、1993年に売却されて、両社の関係は解消したが、その後も旧クライスラーへの乗用車のOEM供給やエンジン供給を行なっていた。(253ページ『トヨタvs.ベンツvs.ホンダ』)
これに対してマツダはフォードの遊休工場に、単独で工場を建設した。
製品の3分の2はフォードが買取る契約であった。1987年に工場が稼動した。
マツダが経営危機の時に、フォードはこの工場の半分を買取った。
GMはいすゞの岡本社長の斡旋によって、1981年にスズキと提携することになった。
両社の交渉はトントン拍子に進み、半年も経たない8月にはGMがスズキに3%出資することで基本合意に達した。
そしてカナダのオンタリオ州に折半出資による新会社(CAMI)を設立、ただちに工場建設にとりかかった。
そして89年から年産20万台規模で乗用車の『カルタス』と四輪駆動車の『エスクード』の生産を始めた。
GMにすればスズキとの提携は、Sカーの生産を中止した場合の保険に過ぎないが、逆にスズキ側からみれば米国進出の足掛かりとなる。(135〜6ページ『自動車 合従連衡の世界』)
ダイハツは一時期アメリカで販売を行なったが、現在は行なっていない。
そして、対米進出に取り残されたのは富士重工業、いすゞ、ダイハツの3社となった。
このうちダイハツは一時、カナダの車両メーカー、ボンバルディエに軽自動車の技術を供与して間接的に進出する案を検討したが、採算が合わないことから早々と北米での現地生産を断念している。(161〜2ページ『自動車 合従連衡の世界』)
残るのは富士重といすゞのみとなった。
富士重が短期間でリスクなき現地生産を実現するには、資本提携先の日産がテネシー州スマーナに建設した工場を活用するのが自然である。
そこで85年の春、日産にスマーナ工場の一部を開放してくれるよう要請した。ところがいくら待っても返事がこない。
こうしてインディアナ州ラファエットにスバル・イスズ・オートモーティブ(SIA)が設立された。
こうなれば日産以外の提携先を探さなければならない。最初に目を付けたのはフォルクスワーゲン(VW)である。
VWは1978年に、外国メーカーとして初めてペンシルベニア州のウエストモーランドに工場を設立して、小型乗用車『ゴルフ』の現地生産に踏み切ったものの、品質に問題が発生したことから、生産縮小に追い込まれていた。
(中略)
こうした縁を頼りに85年夏以降、VWとの間でウエストモーランド工場の活用について話し合いを続けてきた。
現地に調査団を派遣したところ、工場が予想以上に老朽化していることに加え、スタンピング設備がすでに撤去されていたことが判明、秋口には断念せざるをえなかった。
同時並行して仏ルノー公団傘下にあるアメリカン・モータース(AMC)からは、逆にAMCの遊休工場を利用した共同生産を持ち掛けられたが、AMCの経営内容があまりに悪すぎることから二の足を踏んだ。
(中略)
実はこの時期、富士重は第三者の仲介で、すでにいすゞとの間で共同生産に向けての水面下の交渉が始まっていた。
日産に生産を委託するよりも、合弁方式の方が将来の需要動向に柔軟に対応できることから、富士重はいすゞとの共同生産に前向きに取り組んでいた。
(中略)
提携は漠としたものでなく、米国で共同生産という共通の目的を持っている。それだけに交渉はトントン拍子で進んだ。
プレス、塗装ラインなど共用できる設備が70%ほどあるので、投資額は8百億円程度で済む。
この資金は2社で折半するにしても、両社にとって社運を賭した事業であることに変わりはない。
万が一、失敗すれば両社ともたちどころに屋台骨が揺らぐ。
本格的な交渉は年明けから始まったが、加速したのは日産が富士重に対して国内での委託生産の打ち切りを通告して以降である。
富士重は、大株主の日産及び日本興業銀行に対して「共同生産の相手が日産ではなく、なぜいすゞなのか」について納得のいく説明をしなければならない。
それにはどうしても大義名分がいる。
(中略)
この種の合弁事業は折半出資が原則だが、田島が日産と興銀の大株主を納得させるには、あくまで富士重がイニシアティブを取っているとの印象を与えなければならない。
そこで交渉の最終段階で富士重の置かれた複雑な立場を、いすゞ首脳に訴え、合弁会社は形の上では、富士重が主導権を持てるように頼み込んだ。
(中略)
こうした切羽詰まった気持ちから飛山は、最後に富士重の提案を受け入れ、新会社の出資は富士重51%、いすゞ49%の案を呑んだ。(162〜7ページ『自動車 合従連衡の世界』) 両社は米国で共同生産に踏み切ったものの、これまで富士重1億2千万ドル、いすゞも1億ドルの累積赤字を出している。
会社は1つというものの、プレスは共通であっても、それ以外の工程は別々にしてしまったことに原因がある。
これでは同じ敷地に2つの工場が同居しているようなもので、効率が悪すぎる。(173ページ『自動車 合従連衡の世界』)
SIAは1989年に稼動を始めた。2002年12月に、経営危機に陥ったいすゞはSIAを富士重に売却した。
売却以前からスバル車の比率が高く、いすゞ車は富士重工に委託生産することになった。
名前もスバル・インディアナ・オートモーティブに変更になった。
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