1998年8月下旬。
その川のOという集落の上流に高低差10mほどの砂防ダムがある。春の解禁間近に一度訪ねたが、まだ水も冷たく、魚の姿を見ることはできなかった。その前の秋、ダムの下流で二桁を軽く越える釣果があったので気にしていた場所の一つだった。
なんだかんだで、他の川で釣るのに忙しく、とうとう禁漁間近の再訪になってしまった。
タックルをセットしてダムのインレットから入渓したのは午前10時をまわっていた。フライは最近お気に入りの黒のノーテールパラシュートを結んだ。鮎針を使用し、軽く仕上げてある。この時期だとテレストリアルを意識したこうしたフライにどうしても手が伸びる。あまり難しいことを考えないで山岳渓流を叩き上がる夏のスタイルが私は好きだ。
1時間ほどの間に20cm弱のアマゴを2匹釣り上げた。魚の活性はまずまずのようである。チェイスも何度かあったが、取り損ねもあいかわらず多い。まだまだ腕が未熟。そういえば先週この付近は時間40ミリ強という大雨が降った。今回の釣行はその様子見という意味も兼ねている。知人からの報告では、隣のS川では河川敷の草が全てなぎ倒される位の水が出たということだった。この川は、ところどころ倒された木や、押し流され、岩が白い肌を見せて転がっている場所もあったが、概ね釣り場としては大丈夫のようだ。
ここはイワナのポイントのはずなのだが、今日はまだ姿を見せていない。川幅が入渓箇所から次第に狭まり、勾配もきつくなって、いわゆる山岳渓流の渓相になってきた。やがて上流左手が岩盤の崖、右手に大きな沈み石、右岸側から枝がオーバーハングしている場所に到達した。
フッキング。そいつはやっと自分の状況を理解したようだ。もんどり打って潜ろうとする。水面付近でそいつの姿がはっきりと見えた。イワナだ。いい型だ。頭の中が一気に沸騰した。何度かネットに入れ損ね、二度ほど石の間に潜られたような気がするが、私の体内時計の針がどこかに飛んでしまったようだ。どうも記憶がはっきりとしない。気が付くといつの間にかそのイワナはネットに納まっていた。
暫く放心し、ようやく魚を観察する余裕ができた。ネットの中で「つ」の字になったそいつの口からフライを外ししげしげと眺めた。いつのまにか曇が太陽を覆い、その谷間の渓はひどく暗くなっていた。