にらめっこ

1998年8月某日。

 盛夏である。大雨警報の翌日、まだ雲が空の大部分を占めている中車を走らせた。

 実は前日、大雨の下、吉備高原のとあるキャンプ場で野営をしたため非常に疲れていた。ずぶぬれになった道具を片付け、朝食にありつけた頃には既に午前10時を過ぎていた。

 こういった出遅れた日は行く場所が限られてくる。どこに行くか思案する必要もなくT村へ向かった。T村内のYへ到着したころ、ようやく雲の合間からギラギラした夏の太陽が顔を出し始めた。川は増水しているが、濁りはなく、まばゆい光を反射していた。

 今年ここで竿を出すのは初めてである。いつもと勝手が違い、新子(その年に生まれた小さな個体)がやたらいる。再生産がきちんと行われている証拠であり、喜ばしいことなのだが、釣りとしてはちょっと風情に欠ける。幼児虐待は趣味ではないので、Mという別の谷へ移動した。(さらっとこう書けば格好がよいが、正直な話何も釣れないよりはましという時もある。釣り師の心情は贅沢だったり、現金だったり。揺れるナントカゴコロと同じである。)

 同じ水系の谷を一つ移動しただけのMなのだが、今度は新子の姿が全く見えない。こちらは棚田の間を流れるYと違い、川の直ぐ際に樹木が生い茂り、日陰で涼しく快適だ。早速20cmほどの綺麗なアマゴが挨拶に来てくれた。しかしその姿をカメラに納める前に逃げられてしまったのが少々残念だった。

 暫く行くと目の前の開けたプールに餌釣りの先行者がいた。ちょっと挨拶しそのまま川から上がることにした。2kmほど上流から再び入渓。二度ほどまあまあのサイズをばらし、新子を一匹スレ掛かりさせた時点で既に午後六時になっていた。入渓点から言えばかなり歩いたことになる。川から上がり岸に立って後ろを振り返った。無意識の内に後方の林道への登り口を目で追っていた。私の視界の左側に見慣れぬ黒い大きな固まりが三つ見えた。その固まりもこっちの姿に同時に気が付いたようである。

 その固まりは牛の親子だった。親の牛(と思われる)二頭がモーともギャーとも聞こえる大きな声で啼いた。幸い距離にしてまだ15メートルは離れている。冷静になって思い返してみると、50メートルほど川下の岸にあった木造の汚い小屋がどうやら牛小屋で、私は牛に気が付かずそのまま川を上がってしまったらしい。

 牛を刺激しないようにゆっくりと川下に向かって一歩踏み出した。こちらの期待に反して牛も一歩近づいてきた。別に私は牛が特に苦手とか得意とかいう意識はない。ただ、こういったシュチュエーションでどういった対応をすればよいのかさっぱり分からない。まさか肉食の牛はいないだろうが、親牛は子供を守る意識くらいは持っていそうである。ただ単に人間が近づくと餌でも貰えると思っているだけかも知れない。色々考えは浮かんだが、私はそのまま動けなくなり、暫くにらめっこが続いた。

 負けたのは私の方だった。しかたなく上流へ引き返しイバラの生えた斜面を登るという選択をした。腕を何カ所か擦りむき、やっと林道に上がった。林道の上には乾いた牛糞が沢山落ちていた。


 笑ってしまう話だが、実話である。川原に牛を放しているというのは、傍目に見ると牧歌的だが、ちょっと参った。動物といえば、私は猿と鹿には遭遇した経験がある。どちらも向こうの方から逃げていってくれたので何も被害はなかった。私は幸いまだ経験がないが、熊に出会ったり、猪に会ったりする釣り人もいる。また、虻に刺されたりするのは別に珍しくもなく、蜂に襲われたり、蛇を踏んだりする可能性も高い。

 今回の事例はちょっと違うが、依然として渓流は自然の領域であるという自覚は持っていて損はない。緊急時の対処方法など、どういった装備は最低限持っていた方がよいかなど学習しておくのも手だろう。