「旅人モ−ツアルト」の物語−C
興味深いことにモーツアルトさんは生まれ故郷のサルツブルグでは1曲も弦楽四重奏曲を作曲していない.始めの7曲(K80-K160)はイタリアで作曲したし、次の6曲(K158-K173)はウイーンで作曲した.そしてウイーン四重奏曲の最終曲K173(1773/8)を書いた後約10年近くもの長いあいだ彼は弦楽四重奏曲を書かなかった.このつぎに彼の弦楽四重奏曲がこの世に登場するのは1782年で、ウイーンで作曲されたK387であった.
弦楽四重奏曲K173からK387までの約10年にはモーツアルトさんにもいろいろな出来事があり、またいろいろな作品が生まれている.
この期間の作品:
交響曲No.25ト短調(K183)、セレナーデ(K203)、2つのバイオリンのための協奏曲(K190)、 弦楽五重奏曲(K173)、ピアノソナタ(K279-K283)
父親レオポルドの2人で出発.
ミュンヘン選帝侯からのオペラの作曲依頼がありその初演のためにミュンヘンに行くことになった.
1774年12月6日にサルツブルグを出発して7日の午後4時にミュンヘンに着いた.道中は吹雪で馬車の隙間から絶え間なく雪が顔に吹きつけたという.姉のナンネルが後からやって来て1月4日に合流した.
そのオペラは「偽の女庭師(La finta giardiniera)K196」で1775年1月13日に初演され,その後3回の上演があった.時に丁度サルツブルグの大司教ヒエロニムスが他の用事でミュンヘンに来たがオペラは見てくれなかった.オペラのほかコンサ−トも多く催されて大好評を博した.
3月6日にミュンヘンを出発して翌日7日にサルツブルグに帰った.
この旅行中の作品:
「偽の女庭師(La finta giardiniera)K196」,ミサ・ブレビスK220(K196b),ピアノソナタK284(K205b),
奉納唱(日曜ミサのための音楽) K222(K205a)=この曲にはBeethovenの交響曲第9番 の合唱の節が出てくる.
マリア女帝の末の王子マクシミリアン・フランツ大公(モーツアルトさんは1762年、マリア女帝からこの大公の大礼服をもらった)のサルツブルグ訪問のため盛大な音楽の催しがあった.
この期間の主な作品:
オペラ「羊飼いの王様K208」,ハフナー・セレナーデK250,5つのバイオリン協奏曲(K207, K211, K216, K218, K219),ピアノ協奏曲(K238),
母親と2人.
モ−ツアルトさんの父と子はこの優れた才能が田舎町サルツブルグに閉じこめられることへの不満が募り,広い世界に出たいとの希望から,1777年8月1日にヒエロニムス大司教に辞表を提出したが,ヴォルフガングのみには許可がおりたものの,父親には認められなかった.やむを得ず父親は思案の揚げ句に母親をつけて旅立たせた.
しかし音楽の才能もなく,さりとて社交の才能があるわけではなく,平凡な家庭婦人という以外には何の取りえもない世間知らずの母親は何の役にも立たず,モ−ツアルトさんのほうはこの母親を半分馬鹿にしていうことを聞かず,好き勝手に遊び回り,とうとう母親はパリで傷心のうちに死んでしまった.この旅行の大きな出来事はモ−ツアルトさんの初恋と母親の悲しい死であった.そしてモ−ツアルトさんを優遇して雇おうとする人は一人も現れなかった.(下の枠の中をクリックすると詳細記事にアクセスできます.)
旅行日程:
1777/9/23-ミュンヘン(〜'77/10/11)-アウグスブルグ(〜'77/10/26)-マンハイム('77/10/30〜'78/3/14)-パリ('78/3/23〜'78/9/26)-ストラスブール、マンハイム、ハイデルベルク、アウグスブルグ、ミュンヘンを経て1779/1/15サルツブルグに帰った.
パリ滞在中の1778年7月3日夜10時21分に母が息を引き取った.
旅行中の主な作品:
パリ交響曲(K297、K300a),フルートとハープの協奏曲K299, ピアノソナタ(K309-K333), バイオリンソナタ(K304、K306),フル−ト四重奏曲(K285, K285a, K298a),フル−ト協奏曲K313
父親が早くから手を回していたせいもあって1779年1月17日ヴォルフガングはサルツブルグ宮廷楽団のコンサートマスターと大聖堂のオルガン奏者に就任した.父と姉とヴォルフガングの3人はまた一緒に暮らすこととなったが、彼がサルツブルグで生活したのはこれが最後であった.彼の給料は例のアロイジアよりも安く、父親とも意見が合わなくなり、また大司教との仲はますます険悪になってきた.
モ−ツアルトさんの初恋の相手だったアロイジア・ウエ−バ−は1779年10月31日画家で俳優でもあったヨ−ゼフ・ランゲと結婚した.
この期間の主な作品:
モーツアルトさん中期の素晴らしい作品が目白押しである.
教会音楽(K317、K337),交響曲(K318, K319, K338)、協奏交響曲K364(K320d),セレナーデK320,ディベルティメント(K334),バイオリンソナタK378,エジプトの王タモスの音楽K345(劇音楽),ツアイ−デK344(劇音楽),ミサ・ソレムニスK337
ミュンヘンの撰帝侯テオドールの依頼で、長編オペラ「イドメネオ」を上演するのが目的であった.上演(初演)は1781年1月29日に行われて大成功を収め,サルツブルグからも大勢の聴衆が出かけてきた.父親と姉もサルツブルグから見に来た.
ウイ−ンでは1780年11月29日にマリア・テレジアが死亡した.モ−ツアルトさんが貰った休暇は1780年12月18日までであったが,「イドメネオ」の上演が延びたことやマリア・テレジアの死亡でサルツブルグの大司教ヒエロニムスもウイ−ンに行き,これらどさくさに紛れてモ−ツアルトさんはこれ幸いと居心地の良いミュンヘンに居座っていた.
一方ウイ−ンで長期滞在中の大司教ヒエロニムスは,夜会の音楽の必要からミュンヘンで羽を伸ばしていたモ−ツアルトさんを呼びつけた.モ−ツアルトさんは3月12日にミュンヘンから急遽ウイ−ンに旅立った.
この期間の主な作品:
オペラ「イドメネオK366」,イドメネオのバレ−音楽K367
モーツアルトさんは1781年1月29日のミュンヘンでのオペラ「イドメネオ」上演後も、サルツブルグに帰りたくなくてミュンヘンに長く滞在していた.ウイーンでは1780年11月29日にマリア・テレジアが死去した関係でサルツブルグの大司教ヒエロニムスもずっとウイーン滞在していたが、大司教は王侯貴族を招待して催す夜会の音楽演奏の必要性からモーツアルトをミュンヘンから呼び寄せた.
ヴォルフガングは1781年3月12日にミュンヘンを発って、3月16日午前9時頃にウイーンに到着したがもう当日の午後4時には大司教ヒエロニムスの宿舎(ドイッチェ・ハウス)での演奏会に出演した.しかしウイーンにおけるヒエロニムス大司教のモーツアルトさんに対する処遇は、彼がミュンヘンで受けていた待遇とは大違いの下僕なみであった.でも、わがモーツアルトさんは1781年4月3日にウイーン音楽家協会での演奏の機会を得て(この演奏会は大司教ヒエロニムスの妨害があったというが幸い開催できた.)大成功を収めることが出来た.
サルツブルグの父親はウイ−ンでの我が息子とサルツブルグ大司教ヒエロニムスとのまずい関係を心配して,軽はずみなことをしないようにとモーツアルトさんを手紙で説得するのだが,彼とヒエロニムス大司教との関係はますます険悪になっていった.5月2日にはヒエロニムスの宿舎を出て,当時すでにウイーンに移住していたウエーバー家(何を隠そう!そう.あの初恋の人アロイジアの一家である)に下宿した.ウエーバー家では家主のフリ−ドリンは1779年9月に死亡し、アロイジアは同年10月31日に喜劇役者のヨーゼフ・ランゲと結婚していた.
当時ウイーンはすでに音楽大都市で、大音楽家がきら星のごとく活躍しており、最新式のピアノや大オーケストラもあり、それに天才を理解する聴衆もいて彼の心はウイーン定住へと傾いていった.
ついに1781年5月9日、彼の不満は大司教ヒエロニムスに大爆発し、決定的な破局となった.ヒエロニムスと口論の末、モーツアルトさんは”気違い”とか”やくざもの”呼ばわりされて、辞表を提出したが、終にはヒエロニムスヘの取り次ぎ役のアルコ伯から足蹴にされて戸口の外に突き出されたという.6月8日であった.モ−ツアルトさんは完全にヒエロニムスと主従関係を絶った.

サルツブルグの大司教ヒエロニムス
彼ははっきりとウイーン定住を決めた. モーツアルトさんは自分に対する自信をはっきりと自覚するようになった.当時の大ピアニスト「クレメンティ」との競演(皇帝の前での試合演奏,12月24日)の話も有名である.ウイーンでの彼の名声はますます高くなっていったが、彼を雇おうとする貴族は現れなかった.
1781年ウイ−ンに移ってからの主な作品:
バイオリンソナタ(K376, 377, 380),セレナ−デ(K361, K375),2台のピアノのためのソナタK448
モーツアルトさんは父親の反対をおして1782年8月4日にシュテファン教会でコンスタンツエと結婚式を挙げた.
この詳細については下の枠の「恋愛と結婚」の字をクリックしてみて下さい.
1782年の主な作品:
オペラ「後宮からの逃走K384」,ピアノ協奏曲K413, K414, K415),ハフナ−交響曲K385
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