「旅人モ−ツアルト」の物語−F

最後の弦楽四重奏曲K590(1790年 34歳)以後彼方への旅立ち(1791年 35歳)まで

1.フランクフルトへの旅 1790年9月23日−11月10日(約1ヶ月半) 34歳

バイオリニストのホ−ファ−(コンスタンツエの一番上の姉の夫)と召使いの2人だけが同行

オ−ストリアでは1790年2月20日に皇帝ヨ−ゼフ2世が亡くなり,3月13日にレオポルド2世が即位した.この皇帝はヨ−ゼフ1世とマリア・テレジアとの間に生まれた子供で,先帝ヨ−ゼフ2世の弟であったが,音楽に対しては関心が薄く多くの音楽家が辞任して,モ−ツアルトさんにも良いチャンスは巡ってこなかった.

レオポルド2世はオ−ストリア皇帝であると同時にドイツ皇帝をも兼任し,1790年10月9日にフランクフルトで即位式をあげることになり,ウイ−ンからサリエリを中心とした宮廷楽団員がフランクフルトに赴いたが,モ−ツアルトさんはその選考に漏れてしまった.悲しいことにモ−ツアルトさんはそれでも何か幸運をつかみたいと自費でフランクフルト行きを決心したのである.彼は銀の食器など金目のものを質に入れて金を作り,9月23日にウイ−ンを出発して9月28日にフランクフルトに着いた.同行人は2人でバイオリニストのホ−ファ−(コンスタンツエの一番上の姉の夫)と召使いであった.しかしフランクフルトでのモ−ツアルトさんには仕事が回ってこなかった.10月9日に即位式が盛大に行われれたあと10月15日に,彼はたった1回のコンサ−トを自分で主催した.彼の交響曲,ピアノ協奏曲,アリアなどが演奏されたようである.結局,この旅は徒労に終わった.翌日の16日にはもうフランクフルトを後に帰途に着いた.マインツ,マンハイム,シュヴェチンゲン,ウルム,ミュンヘンなどに寄って演奏会を行い,11月10日ウイ−ンに帰ってきた.

留守中にロンドンのイタリアオペラ劇場の支配人からロンドンに来て作曲して欲しいという手紙が届いていたが,これは見送りになった.留守中にコンスタンツエはモ−ツアルトさんの最後の家(ラウヘンシュタインガッセ970)に転宅した.

ペ−タ−・サロモン(ボン生まれのドイツ人でロンドンで音楽家として成功し,コンサ−トのマネ−ジメントをやっていた人)からの招待でハイドンが急遽ロンドンに行くことになった.12月14日に送別晩餐会があり,この席上でサロモンから翌年にはモ−ツアルトさんを招待するとの申し出があった.翌日の15日に出発したハイドンをモ−ツアルトさんは見送ったが,ハイドンがロンドンから帰ってきたときにはもうモ−ツアルトさんの姿は既にこの世になかった.

1790年12月〜プラハへの旅行(1791年8月)の間の主な作品

弦楽五重奏曲K593,弦楽五重奏曲K614,ピアノ協奏曲K595それに

モテット「Ave verum korpus K618」(これは1791年6月17日バ−デンで作曲された.たびたび,またこの時もバ−デンに静養に来ていたコンスタンツエの面倒をよく見てくれた地元の教会合唱長シュトルに感謝して作曲された.)


2.3回目のプラハへの旅 1791年8月25日−9月中旬(約1ヶ月) 35歳

コンスタンツエと弟子のジュスマイアが同行

目的はオペラ「ティトスの慈悲K621」の初演.モ−ツアルトさんはオ−ストリア皇帝レオポルド2世のボヘミア王兼任戴冠式の祝典オペラとして8月ごろにこれの注文を受けた.

彼は作曲途中であったオペラ「魔法の笛K620」(世間では「魔笛」と呼ばれているようであるが)を一時中断してこの仕事に専念した.戴冠式は9月6日に決まっていたので期限が迫っていた.彼はできかけの楽譜を抱えて妻コンスタンツエと弟子のジュスマイアを連れて8月25日にウイ−ンを出発した.当時二人いた子供は知人に預けた.道中にも楽譜を書き続け,8月28日にプラハに着いたが曲は戴冠式前日の9月5日に完成した.彼は疲労困憊していたとみえる.初演は予定のとうり行われたが,皇帝両陛下はご満悦であったという報道もある一面,皇后は「お粗末」と評したという話もある.これがモ−ツアルトさんの生涯で最後の旅行となった.


3.生涯最後のウイ−ン 1791年9月中旬−1991年12月5日(約2.5ヶ月) 35歳

プラハから帰ったモ−ツアルトさんはオペラ「ティトスの慈悲K621」の作曲期限のために一時中断していたオペラ「魔法の笛」と6月に依頼を受けた「レクイエム(死者のためのミサ曲)」の作曲に没頭した.コンスタンツエは10月にまたバ−デンに保養に出かけたが,モ−ツアルトさんを心配して今回は1週間で帰ってきた.モ−ツアルトさんはかなり弱っていた.ある日2人でプラタ公園を散歩しながら「レクイエムの完成がおぼつかない.誰かが自分に毒でも盛ったのではないか.」と涙ながらに話したという.これがいわゆる毒殺説の発端となり,サリエリがその犯人の汚名を着る羽目になるが真相はわからない.

サリエリ,Antonio Sarieli 1750-1825

「魔法の笛K620」は9月28日に完成し,9月30日に初演がフライハウス劇場が行われた.第2幕の後で聴衆は熱狂した.その後「魔法の笛」は大人気を博しほとんど毎日上演されたという.

このすぐ後,恐らく10月にクラリネット協奏曲K622が完成した.

11月18日にはフリ−メイソンのためのカンタ−タK623」の指揮をした.これがモ−ツアルトさんが聴衆の前に姿を見せた最後であった.2日後の11月20日にはもう寝たきりで起きられなくなった.28日には主治医と市民病院の医長の診察があったが,もう助からないという診断であったようだ.

12月3日に少し症状は良くなった.

12月4日には書きかけの「レクイエム」の譜面を取って,来合わせた数人の歌手達とともに,自分はアルトのパ−トを受け持って第6曲「涙の日」を歌おうとしたがモ−ツアルトさんは声が出なかった.この「ラクリモサ(涙の日)」の8小節目で「レクイエム」は絶筆となった.4日夕方ソフィ−(コンスタンツエの妹)がやって来た.モ−ツアルトさんはコンスタンツエに「ソフィ−さんが来てくれてよかった.と言い,ソフィ−に「今日はここに泊まって僕が死ぬのを見なくちゃ.僕はもう死の味を舌の上に感じている.この後誰がコンスタンツエを助けてくれるだろう.」と言った.モ−ツアルトさんのベットの脇には弟子のジュスマイヤ−がいて,「レクイエム」の今後の作曲について指示を受けていた.午後11時ごろから意識がなくなり,1791年12月5日午前0時55分,35歳10ヶ月の生涯を閉じた.居合わせたのはコンスタンツエ,コンスタンツエの母,ソフィ−,死の間際にやっとやってきた主治医,それに弟子のジュスマイヤ−の5人で,神父は呼びに行ったが来なかったらしい.

モ−ツアルトさんの病気の診断は何であったのか?.尿毒症と書いてある本があるが,私には納得しづらい.

葬儀は12月6日または7日(?)に,コンスタンツエと結婚式を挙げたと同じシュテファン教会の脇の屋外で行われた.葬儀は最低レベルの3等級で行われ,遺体はシュテファン教会から約5キロにある聖マルクス墓地に運ばれた.葬列に参加した人はほんの数人で,2人の人足の他はみんなウイ−ンの町の城門のところで帰ってしまい,遺体は墓地に放置され,翌日貧民墓地に埋葬されたらしいが,墓石はおろか十字架を立てた人もいなかった.このためモ−ツアルトさんが埋葬された場所は今日まで不明である.

女性は葬列に参加しないしきたりだったようで,妻コンスタンツエは墓地には行かず,彼女が始めてこの墓地を訪れたのは,夫モ−ツアルト死亡の実に17年後の1808年であった.

「レクイエムK626」はモ−ツアルトさんの死後ジュスマイヤ−によって補筆完成されて,1793年1月4日ウイ−ンで演奏された.



[弦楽四重奏曲からみたモ−ツアルトさんの旅]




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