旅行日程:
1779/9/23-ミュンヘン(〜'77/10/11)-アウグスブルグ(〜'77/10/26)-マンハイム('77/10/30〜'77/3/14)-パリ('78/3/23〜'78/9/26)-ストラスブール、マンハイム、ハイデルベルク、アウグスブルグ、ミュンヘンを経て1779/1/15サルツブルグに帰った.
モーツアルトさんのサルツブルグの大司教コロレド・ヒエロニムスに対する不満とサルツブルグという小都市に閉じ込められている不満は急速に拡大して、自分の才能にふさわしいもっと広い世界があるのではないかという期待から、彼は親子して1777年8月1日にコロレド大司教に辞表を提出した.
1777年9月1日になって我がモーツアルトさん(ヴォルフガング)のみには解雇辞令がでたものの、父親のレオポルドは許可されなかった.これまで20年間わが息子を支配してきた父親はやむなく息子には母親をつけて旅に出し、手紙による遠隔操作で息子に指示を出そうと計画した.
1777年9月23日早朝、母と子はミュンヘンに向けて職探しの旅に出た.ミュンヘンには17日間滞在したが、大して得るところ無く、10月11日にはミュンヘンを発ってアウグスブルグに到着した.アウグスブルグは父親レオポルドの故郷でレオポルドの弟のフランス・アイロス・モーツアルトがいたが、ヴォルフガングはその娘マリア・アンナ・テフラ(俗にベーズレ)と非常に親しくなった.
10月26日にアウグスブルグを出発した彼らは10月30日にマンハイムに到着した.マンハイムには当時最も近代的なオーケストラがあり、楽長カンナビッヒと親しくなったが、就職の話は進まなかった.
マンハイムでの特記事項はフリードリン・ウエーバー(1733-1779)の一家と親しくなったことで、一家には4人の娘(ヨーゼファー、アロイジア、コンスタンツエ、ソフィー)がいて、21歳のモーツアルト君は歌の上手なアロイジアに恋をした.この頃からモーツアルトさんはますます母親のいうことを聞かなくなった.何時の時代でも、世の東西を問わず、若者は皆同じことをする.就職活動がうまく行かないのにわがヴォルフガング君は遊び回り、一方、故郷サルツブルグでは一人残された父親自身の生活費も息子達への仕送りがかさんで苦しくなることから、父親はいらいらし、早くパリに行くように遠隔操作で息子に命令した. アロイジアを伴ってイタリアヘ行こうと計画していたヴォルフガングはやむなく計画を変更し、彼ら母と子は1778年3月14日にマンハイムを発って1778年3月23日にパリに到着した.アロイジアとの恋は中断した.
この馬車の旅は非常につらかったらしく、また半年間のパリでの生活も二人にとってはきつかったらしい.これまでの旅では父親がすべて計画し、モーツアルトさんは何もせずに済んでいたのが今回は頼る父親はおらず、モーツアルトさんは世間の常識が全くない大きな子供で、また母親は、とても、とても頼りになるというものではなかった.パリに着いたモーツアルトさんは翌日から活発な就職活動を展開したらしいが、コネもなく、かってウイーンのシェーンブルン宮殿で面識のあったマリー・アントワネットがルイ16世の妃となってパリにいても、なんの推薦状も持たない彼は面会の術もなく、世間は彼に微笑まなかった.ただ1778/6/18に交響曲(いわゆるパリ交響曲K297、K300a)の初演がありこれは大成功したらしい.ところがこの直後に大不幸が待ち受けていたのである.
母の死である.過酷なパリ旅行とパリ滞在中の安宿での肉体的精神的苦労がたまっていた.彼女は激しい頭痛、悪寒、高熱で2週間病床につき、6月12日に書いた夫への手紙を最後に病状が悪化して、1778年7月3日夜の10時21分に息を引き取った.57歳7ヶ月の生涯であった.
思えばかわいそうな女の一生ではあった.母親のいうことを聞かずに勝手ばかりしていたわがモーツアルトさんではあったが、母の死の衝撃は大きかったようである.彼は3通の手紙を書いた.1つは父親宛、第2はモーツアルト一家と親しかったブリンガー神父宛、第3はマンハイムのウエーバー家宛であった.父親宛の手紙には母の死を報告できず、神父宛の手紙に母の死を書いて、父と姉に告げてもらうように依頼した.
父と姉の衝撃は大きく、2人とも全く食事が出来なくなったという.父親は息子の犠牲となった最愛の妻の死を悲しんだが、1人になったヴォルフガングのことも気になった.事実、ヴォルフガングはパリで独りぼっちになり、その後もパリでの仕事は思わしくなかった.彼はマンハイムの彼女(アロイジア)が忘れられず、彼女と彼女の父親に手紙を書いて自分の作った歌をパリに来て歌ってくれないかと持ちかけたが断られた.ウエーバー一家はミュンヘンの新しい大司教の宮廷に職を得て9月にはミュンヘンに移住した.
だんだんとパリにも居ずらくなってきたモーツアルトさんであったが、サルツブルグを出た経緯からも、今更おめおめとサルツブルグに尻尾をまいて帰るわけにも行かなかった.サルツブルグの父親からはお膳立てをするから早くサルツブルグに帰ってくるようにとの催促がしきりと来る.
やがてパリでこれまで世話になり頼りにしていたグリムにもサルツブルグに帰れと言われるようになった. ついに1778年9月26日ヴォルフガングはパリを発って帰国の途についた.鈍行馬車に揺られて10月15日ストラスブールに着き3回の演奏会をした後、11月6日マンハイム発、ハイデルベルク、クライスハイム、アウグスブルグを経て、12月25日夜にミュンヘンに着いた.
胸躍らせてウエーバー家を訪れたが、かっての清純な娘アロイジアは宮廷歌手に雇われて裕福な暮らしをしており、モーツアルトさんのかっての情熱は再現しなかった.
年が変わり、1779年1月15日とうとうモーツアルトさんは再びサルツブルグの父親の元に帰ってきた. 1年半に及ぶ徒労な武者修行であったが、彼は父親からは授けてもらえなかった貴重な人生体験を一人で味わった.まさに旅のモーツアルトであった.
旅行中の主な作品:
パリ交響曲(K297、K300a),フルートとハープの協奏曲K299, ピアノソナタ(K309-K333), バイオリンソナタ(K304、K306),フル−ト四重奏曲(K285, K285a, K298a),フル−ト協奏曲K313
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